Modern Life Is Rubbish

美しいもの。本、映画、音楽、そしてそのほか雑文

夢記録その1

ここ最近、わが子が登場する夢を見たので、何かのために記録。
この後その2、その3が記されるのかは不明だが、一応「その1」と題することとする。


・夢1
息子と一緒にデルタ航空アメリカ行きの便に乗るために、螺旋階段を駆けのぼる。
デルタ航空のゲートが螺旋階段の25階にあるのだ。
ぜーはー言いながら駆け上る。
苦労して上って上に着いたら、電光掲示板には、私たちの便は明日だと表示されている。
そこで、はっと気付く。

私たちはパスポートその他あらゆる荷物をもってきていないのだ。

「飛行機が明日でよかった。荷物を取りに家に帰ろう」

私たちは螺旋階段を降り、道を逆に戻り、家路を行こうとする。

家までの道は、山の中の草木をかきわけてゆくような道なき道である。
私たちの背の高さほどもある草木をかきわけながら、なんとか広い山道まで出たが、迷ってしまったようだ。
そこに大きな平屋と、そこに住んでいるのであろう日本人のおじいさんとトルコ人の少年が現れる。

「お前、案内してやれ」
とおじいさんがトルコ人少年に指示する。
なぜ、トルコ人少年が私たちの家までの道を知っているのか、そのあたりは完全に不透明である。
しかしトルコ人少年の足取りは軽く、どんどん山道を行き、道はどんどん広くなる。
最後に山の広い高台に出た。
そこから、山のふもとの街が見えた。
車が行き来する細い道路、川、駅、そして家々。

「僕が案内するのはここまで。あれがあなたたちの街だよ」



・夢2
息子と気球状の物体に乗って、旅行をしている。
その気球状の乗り物の大きさは、多くて4人乗れる程度である。
ただし、その気球はふつうの気球ではない。
前方に、大画面がついている。
映画館のスクリーンというほどでもないが、それのミニチュア版のような形の画面である。
その大画面にバーチャルな景色が映し出され、まるでジェットコースターに乗りながら観光地をすごいスピードでめぐっている、そんな感覚になれるという代物だった。

今、画面では、アムステルダムの街路をこの気球ですごいスピードで進んでいた。
ふとiPhoneを使おうとすると、ない。
ない、ない、ない、と騒いでいると、気球内の棚か何かの上で、iPhoneらしきものが見つかった。
と思ったら、これは息子のiPod touchであった。

再び、わたしのiPhoneを探していると、今度は気球の床の上でiPhoneらしきものが見つかった。
と思ったら、またまた息子のiPod touchであった。
「さっきのは第3世代、これは第4世代」
と息子は言う。

さらに再び、今度は大画面前の操縦席のような場所にiPhoneらしきものが見つかった。
と思ったら、またまたまた息子のiPod touchであった。
「これは第5世代」
と息子は言う。

そこで私の目が覚める。
目が覚めた現実世界で、まずい、と焦った手つきで、iPhoneを枕元で探す。
iPhoneはもちろん何事もなかったようにそこにあり、わたしは胸を撫で下ろした。


・夢3
娘が初めて単語をしゃべった。
まだ生後2ヶ月だというのに「パパ」「ママ」と言う。
そして最後に自分自身を指差して、自分の名前を口にした。


・夢4
寝室で自分は寝て、娘は居間で寝ていた。
その時に見た夢。

私が起きて居間に行くと、娘が連れ去られていた…!
あわせてなぜか大きなソファもすっぽりなくなっていた。

と思うと、まだ自分は寝室で寝ている。
なんだ、夢か、と胸を撫で下ろし、再び居間に足を運ぶと、娘の姿はなく、ソファもない。

と思うと、まだ自分は寝室で寝ている。
なんだ、夢か、と半分胸を撫で下ろし、半分不思議な気持ちで、再び居間に足を運ぶと、娘の姿はなく、ソファもない。

と思うと、まだ自分は寝室で寝ている。
なんだ、夢か、と半分胸を撫で下ろし、半分不思議な気持ちで、再び居間に足を運ぶと、娘の姿はなく、ソファもない。

と思うと、まだ自分は寝室で寝ている。
なんだ、夢か、と半分胸を撫で下ろし、半分不思議な気持ちで、再び居間に足を運ぶと、娘の姿はなく、ソファもない。

と思うと、まだ自分は寝室で寝ている。
なんだ、夢か、と半分胸を撫で下ろし、半分不思議な気持ちで、再び居間に足を運ぶと、ようやくすやすや寝ている娘の姿とソファが目に入り、ようやく現実世界において生きた心地を取り戻した。

レイモンド・チャンドラー「ロング・グッドバイ」(村上春樹 訳)

レイモンド・チャンドラーの「ロング・グッドバイ」。
今年、日本でドラマ化もされたが、なんと書かれたのは1953年と約60年も前。
私が読んだのは、もちろん村上春樹訳。


■あらすじと設定
私立探偵のフィリップ・マーロウは、億万長者の娘シルヴィアの夫テリー・レノックスと知り合う。あり余る富に囲まれていながら、男はどこか暗い蔭を宿していた。何度か会って杯を重ねるうち、互いに友情を覚え始めた2人。しかし、やがてレノックスは妻殺しの容疑をかけられ自殺を遂げてしまう。が、その裏には悲しくも奥深い真相が隠されていた。


■感想

・マーロウという人間と、男同士の絶妙な距離感の関係性について

レノックスの自殺の真相まで、話の骨格がしっかりしている。

しかし、主人公のマーロウの心理描写がないので、淡々と話が進む感じがあり、心理描写を楽しむ読者には物足りないかもしれない。
かくいう私も夏目漱石のくどいまでの自意識描写を好んだりする読者なので、「ロング・グッドバイ」については寝る間も惜しんで没頭して読むまではいかなかったように思う。

心理描写がないためかどうかわからないけれど、私にとって、マーロウは、自分の「範囲」がわかった人間、信念はあるがある種の諦念を持った人間のように映った。
つまり、自分はこういう風だ。こういう風にしか生きられないからこう生きる。「こうなりたい」という願望はとうの昔になくなったよ。というような。
これは「大人になる」ことの一つの形だと思う。
このようになりたいかといわれれば、なりたいようななりたくないような、というのが正直なところ。

淡々と進む「大人」仕様の安定感のあるストーリにおいて、唯一「子ども」っぽい不安定だが美しい光を感じられるのが、テリー・レノックスの存在。
というか、私としては、レノックスの存在というよりも、マーロウとレノックスの関係性が、この小説に稀有な光を与えていると思う。
遠いようで近い。
近いようで遠い。
微妙なそして絶妙な距離感の関係性。
友情と呼ぶには不足している、しかし、単なる知人と呼ぶには親近感が強い、そんな関係。

本文の115ページで、レノックスとの関係性がマーロウによりこう語られる。

          • -

彼は長い船旅で知り合った誰かに似ている。とても親しくなるのだが、実際には相手のことを何ひとつ知らない。

            • -

この程度の距離感の相手なのに、なぜかマーロウはさまざまの不利益を被ってでも彼の無罪を確かめようとひたすら行動する。

ここに私は、マーロウの人としての信念のようなものと、2人の関係のはかない光のような美しさを感じる。



・文章のうまさについて

特別に長い(長すぎる)村上春樹の訳者あとがきにも記述されるように、チャンドラーは文章がすごくうまいと思った。
そのうまい文章とは、たとえばこんな具合である。


本文345ページ

          • -

永遠に続くのではないかと思われる朝だった。ぐったりとして何をする気もおきず、ただ気怠く時を過ごしていた。一刻一刻はロケットが失速するときのような、気のないむなしい音とともに、ただ虚空の中に消えていった。

          • -


本文517ページ

          • -

電話を切った。それからドラッグストアに行って、チキンサラダ・サンドイッチを食べ、コーヒーを飲んだ。コーヒーは幾度ものお勤めで疲弊気味だったし、サンドイッチには細かくちぎられた古いシャツのような深い味わいがあった。トーストされ、二本の楊枝でとめられ、レタスがわきからはみ出していれば、アメリカ人はどんなものだって文句を言わずに食べる。そのレタスがほどよくしなびていれば、もう言うことはない。

          • -


そのうまさの解説については、春樹の長すぎる、そして愛情あふれすぎる、訳者あとがきにお任せします。



村上春樹への影響について

最後に、村上春樹への影響について、簡単に。
文体もさることながら、キズキや鼠を髣髴とさせるテリー・レノックス的存在と、わりとニュートラルな立場から語り物語を進める主人公、というこの骨組みは、明らかにチャンドラーからの影響が大きいと思う。
ただし、チャンドラーの場合はこの主人公の心理描写が徹底して描かれないのに対し、春樹の主人公は結構雄弁であり、自分の孤独や不可思議な状況(いきなり頬に大きなあざができていたりだとか)について言葉巧みに説明や表現をしてくれる。このことは、春樹小説が大勢の日本人読者を共感させ多くのハルキストを生み出した1つの要素だと思う。

木皿泉「昨夜のカレー、明日のパン」


敬愛する木皿泉さんの「昨夜のカレー、明日のパン」。

ドラマと小説、両方観終えたので感想。


■あらすじと設定
テツコは義父と2人で暮らしている。
義父のことは「ギフ」と呼んでいる。
夫の一樹が死んで7年(小説では9年という設定)になるが、いまだにギフと暮らしているのである。
テツコに恋人はいるが、再婚する気は今のところない。
テツコとギフをとりまく人たちに、日常的な事件がいくつか起こり、そのなかでテツコとギフは変わっていくのだろうか、あるいは変わっていかないのだろうか。


■感想
木皿泉のどのドラマにも共通する世界観、それは、暖かさ、アナログ感。
それから、「いま目の前にある世界を大事にして、この世界で生きてゆかなければならない」というメッセージ。
丁寧な生活、そして「無駄のある」生活。

こういった内容は、今回も作品の根底に流れている。

この「いま目の前にある世界を大事にして、この世界で生きてゆかなければならない」というメッセージは、ジム・ジャームッシュの「パーマネント・バケーション」に描かれた、「1つの場所にとどまっていられない」「ここではないどこかへ移動しつづける」という、現代の焦燥感や渇望と、真逆の位置にあると思う。
パーマネント・バケーション」に共感してしまう自分だからこそ、この木皿泉のメッセージを暖かく感じ、納得し、大事に心にしまって生きていきたいと感じるのである。

今回のドラマも、観ていて、観進めていくのがもったいなくなるような作品だった。
これは面白い小説を読んでいて、文章がよすぎて、展開もおもしろすぎて、読み進めていくと「あー、あとこれだけしかないのか」と残りページ数が少なくなっていくのを残念に思う、それと同じ感覚である。

1回1回の話には

「みんな前に進めっていうけれど、とどまることってそんなにいけないことなのかな?」

とか

「誰かと生死を共にすること、それは迷惑をかけたりかけられたりしながら生きていくってこと」

とか

「他人から見たらみじめに見えるときでも、夢のようにきらきら輝く時間がある」(全く関係ないが、これはBLURの「BEST DAYS」という曲の歌詞で表現されている価値観とほとんど同じである)

とかいったテーマが盛り込まれており(こういったことはほとんどが登場人物にセリフとして言わせているのが木皿泉の手法だ)、料理や家、小道具の描写はいつもどおり丁寧にこだわられている。

特に、主役の仲里依紗さんが家着として着ていたTシャツは、毎回凝っていて可愛かった。
「ロリータ」や「巨匠とマルガリータ」、「オズの魔法使い」「どろんこハリー」、とにかくほとんどが文学が背景にあって、おしゃれだった。

ドラマを作るって、このこだわりを目に見える世界として作れるわけで、これは楽しいだろうなあと心底思わされる。

それから亡くなった一樹を思い続ける、仲里依紗さんの演技もよかった。大事な存在の不在に対して、人はどういう表情をするのか、それがよく表現できていて、泣けた。

わたしは、過去の作品、「野ブタ。をプロデュース」と「すいか」で、木皿泉という脚本家に度肝を抜かれた。
日本のドラマの脚本家という意味では、初めてマニアレベルで好きになって関連本やDVDを購入した。
しかし、今回の「昨夜のカレー」は、「野ブタ。」や「すいか」ほど、心をきらきらさせられることはなかった。
なので、たぶんDVDは買わないだろう。
もちろん、いつもの木皿節は健在なのだが、どうしてだろうか。

ひとつは、ストーリーに大きなゴール(進むべき目標)や、軸、そして謎がないこと。
「すいか」小林聡美小泉今日子は友人関係にありながら、真逆の価値観(「この世界で生きてゆく」と、「ここではないどこかへ」)を体現する存在(軸)であった。
野ブタ。」では、野ブタ。を「プロデュースする」という大きなゴールと、「陰湿ないじめをしているのはだれか?」という謎があった。今回の作品「昨夜のカレー」で、全編を貫くストーリー上のゴールは、あるとすれば、おそらく「テツコは死んだ夫、一樹を手放すことができるのか」ということかもしれない。しかしこのゴールが題材としてあまりに重いので、なんとなくよくある話(いろいろな作家がよく題材にする話)といった感じで逆に陳腐になってしまった気がする。

2つ目は、きらきらした若さのようなまぶしさのようなそういったものがあまり感じられなかったこと。
これは設定の問題もあるし、映像的にも、ブラウンの印象が強かった。
野ブタ。」は、学園ものなのでそもそも青春、若さゆえの悩みやテーマを取り扱っていたし、映像的にもセピアがかった夕焼けに制服、とまぶしさがあった。
「すいか」は学園ものではないが、映像的にみずみずしい緑色の印象があり、主役の2人以外の俳優さん(ともさかりえ市川実日子)がおしゃれオーラ全開だったのもあって、きらきらしていた。

3つ目は、俳優さんの演技や存在感。
主役の仲里依紗さんや、義父役の鹿賀丈史さん、彼氏役の溝端淳平さんらは、キャラクターを愛されるべき存在にしていて、とてもよかったと思う。
演技のことはわからないので、私個人の感覚の問題になるが、「ムムム」役のミムラさんと、一樹役の星野源さんの演技が苦手だった。
特にミムラさんの演技は大袈裟で、「笑えなくなったCA」という闇を抱えた女性という設定だったが、共感できなかった。「すいか」でいう、ともさかりえ的な立ち位置と思われるが、ともさかりえの役には魅力があり共感できた。

4つ目は、音楽。
これも、ドラマの中で使われる阿南亮子さんの作られた音楽は、とても美しく切なく、木皿泉ワールドにぴったりだった。
ドラマのよさの、5分の1くらいはこの音楽のおかげなのではと思われるほどだった。
問題は、主題歌、というかエンディングの曲。
プリンセス・プリンセスの「M」なのだ。
これは、古すぎるし、ベタすぎたと思う。
わたしとしては、くるりの「飴色の部屋」あたりを使ってほしかった。
でもそれだと「ジョゼと虎と魚たち」と同じになってしまうし、実際は使えないだろうなあ。

自分の勉強のためにも、過去の作品に比べて、いまいちだった点をあげてみたが、しかし、冒頭で書いたとおり、すごく好きなドラマで、観進めるのがもったいないくらいの作品だったことは間違いない。
これからもしばらくは家事や育児をしながら、このドラマの録画を流して、世界観に浸ったりする自分はいるだろう。

最後に、小説の感想を少し。
この方々は、やはり脚本家である、と思った。
小説を最初に書いて(小説家としては処女作)、それをドラマ化したようだが、やはり小説よりもドラマのほうが、数十倍よかった。木皿泉の世界観、これを表現するのは文章よりも、音楽と映像のほうが得意だということなのだろう。
小説は2014年本屋大賞第2位とのことだが、文章をかみしめるだけでおかずになるような、文章の深みや香りといったものはなく、文学性は感じられなかった。
しかしセリフには輝く言葉がちりばめられている。今までの木皿泉のドラマと同様に。
ドラマ化にあたっては、ほとんど省かれたと思われる「夕子」の章が、小説としては一番感情移入して読めた。
この章では、「どんどん無駄がなくなっている社会に取り残されていく感じ、しかしその社会で生きていかなければいけないということ」が会社の急激な変化を通じて描かれる。
それから、「見た目は立派に見えるが、どことなくみすぼらしい感じを与える人たち」を、夕子の目を通して、のちに夫となる寺山連太郎と対比して、描かれる。例えばそれはずり落ちそうなズボンをもち上げるしぐさだったり、自慢しているときの口もとであったり、財布を覗き込む首の角度だったり、そういったことである。その「みすぼらしさ」が連太郎にはないということで、彼と結婚する過程が描かれている。この「みすぼらしさ」はすごく共感した。これは要は「人としてのいじきたなさ」「周囲の世界にあわせようとする焦りから自分が自分でなくなっていること」といったようなものである気がする。そういったものが一切ない人間というのは、現実世界にはいないのかもしれない。いや、わたしが知っている人で一人くらいはいたかもしれない。いずれにせよ、自分はそういった「みすぼらしさ」からはほとんど無縁であるような人間でありたいものである。

ギリシャ・オランダ夏旅行(12)

(12) おわりに ―夕陽のある生活

 今回の旅で気づけた、最も尊いこと。
 
 それは、旅行中ほとんど毎日、夕陽が落ちてゆく絵を、美しいなあと他の何をも考えることなく、眺めることができたことだった。 
 それから、旅の毎日を過ごすなかで、時間をほとんど気にしなくてよかったこと。
 
 当たり前のようでいて、なんて贅沢なこと。
 
 目の前の日々はただただ忙しく通り過ぎて、情報にあふれ、やることに覆われ、時間を常に意識し、それでも夕陽を眺める時間なんてもちろんない。
 
 もっとシンプルに。
 もっと穏やかに。
 もっと自分が大事に思うことを見極めて。
 
 夕陽を眺める時間を日常に少しでも取り入れることができたなら。
 みんながそれぞれの小さな幸福に気づけるような国になれるかもしれない。
 
 
 日本に帰国した直後は、まだ東京での早いペースに戻れず、毎日夕陽を眺める時間を作ろうと思いながらも、結局雑事や仕事に追われて、夕陽を実際に眺めることができたのはほんの二、三度だった。
 非日常の感覚を抱き続けて日々を過ごしたいと思いながらも、いつの間にか東京のペースに慣れ、再び以前と同じ日常に溶け込んでしまったのだ。
 夕陽を眺める時間なんてない、それなのに毎日時計を気にしながら過ごす、この日常に。
 
 それはそれで仕方がないことなのかもしれない。
 旅でしか得られないものだってある。
 もちろん理想は、旅で気づけた感覚を、日常でも大事に抱えて過ごすことではあるのだけれど。
 
 小沢健二も歌っていたっけ。
 「ぼくらの住むこの世界では
  旅に出る理由があり
  誰もみな手をふってはしばし別れる」
 
 
 新婚旅行から帰国し東京での日常が再び始まってから、早くも半年以上がすぎてしまった。
 帰国して改めて思うのは、みんな、いつでもどこでもスマホとにらめっこしているなあということである。あるいはこれは日本だけの現象ではないのかもしれない。世界じゅうの現代生活全般に見られる絵なのかもしれない。ただ、東京では電車に乗ることが多いのでどうしてもスマホ・ピープルが目につく。
 人とつながる、ゲームをする、情報を読む、動画を見る。確かにスマホにはいろんな楽しみがある。中毒といっても差し支えないほどにみんなスマホを見ている。
 具体的に何が悪いというわけではない。ただそれは「テクノロジーに支配されすぎて個々に孤立する人間たち」というタイトルのついた絵のように、どこかさみしい。
 人と人とが実際に向き合って笑いあったり、紙の書物を手にして集中していたり、ただ電車の中でぼんやりと外を眺めていたり、そういった光景を見かけると、私はなぜだかほっとする。
 
 
 だって、もしもあと1週間でこの世が終わるとしたら、大事な人と一緒に夕陽を眺めることができる世界と、個人個人がスマホに集中している世界と、どちらを選びますか?
 
 

ギリシャ・オランダ夏旅行(11)

(11) アムス→フランクフルト→成田

2013年9月7日 土曜日

●1. フランクフルト
 早朝から、アムス発の列車に4時間乗って、フランクフルト空港まで行く。
 早朝のアムステルダム駅には、夜遊びからそのままドラッグ漬けという風の女の子、男の子たちが見えた。特に、とある20歳前後とみられる女の子は、足はふらふら、目は完全にトランス状態、誰彼かまわずよくわからないことを声をかけて歩いていて、なかなか危険な状態に見えた。しかしこれはおそらくアムスではごく日常的な光景なのだろう。
 
 列車の旅はいつでも楽しい。わたしは飛行機も好きだけれど、飛行機はどうしても一人旅の経験が多かったりある程度の危険や制限もあるので、なんとなくストイックに孤独を楽しむ時間というイメージ。列車はもっと、和気あいあい、景色も楽しめて、ゲームをしたり(飛行機でも人と移動するときは結局ゲームしたりするのだが)、そしてどことなくのびやかなイメージがある。経験的なものかもしれない。幼い頃、親に経験させてもらった「わんぱく列車」。子どもたちだけで、あとは知らないインストラクターがいて、隣の県の川などに遊びに行くのだ。これは、小学生の頃、弟と、幼馴染でピアノをずっと一緒にやっていたマリちゃんと、3人で毎年行っていた。それから、なんといっても大学時代のヨーロッパ女3人旅行。スイスからイタリア、イタリアからスイスを列車で移動して、怪しい人物を見かけたりして身の危険も感じながらも、とっても楽しかったな。

 フランクフルトまでは、どんよりとした曇り空で、窓の外は地味な風景が続く。二人でポーカーで遊んで、あとは少々眠った。ポーカーは、チップをもってきていなかったので、UNOのカードをチップ代わりにした。わたしと夫と、一回ずつ勝って、トータルは引き分け。
 
 フランクフルト空港で楽しみにしていたことがある。「deutsch」という白と水色のドイツ料理レストラン。以前、アメリカからの帰り道で、悪天候のために飛行機の乗り継ぎルートが急遽変更になり、アメリカから成田の間にフランクフルトを経由したことが一度だけあった。そのときにこのレストランで食べたソーセージ付きポテトサラダがなんともいえないやみつきになる美味しさだったのだ。ポテトサラダといっても、日本のポテトサラダのイメージとは全く違う。おそらく、マヨネーズは使っていない。ビネガーと、甘み(砂糖?)と、オリーブオイル、それからマスタードの味!色味としては、白ではなく、黄色。味はほどよく濃く、かといってアメリカの食事のような人工的な味でもない。
 おぼろげな記憶の糸をたどって、方向音痴のわたしががんばって道を切り拓く。
 と、ついに、その白と水色のスタイリッシュなお店は姿を現した!

 わたしはもちろん同じものを注文し(気に入ったら何でもとことん繰り返すタイプである)、夫は白ソーセージとザワークラウト。彼は白ソーセージはもちろん、そのドイツの白ビールヴァイツェンを大変に堪能したようで、うまいを連呼していた。もしかしたら、今回の旅行で彼にとっては最も味的には印象に残ったものかもしれない、そのくらいの感動のしようだった。

 そこから成田への道中は、写真も残っておらず、正直あまりおぼえていない。
 楽しい旅に浮かれすぎて、そして旅が終わることが悲しすぎて、おぼえてないのである。
 それでも成田に着いたその翌日から、会社に出勤し、日常はまた始まることは確かである。
 この旅が夢のようだったからこそ、日常がまた始まることがまだ信じられなかったことだけは覚えている。

ギリシャ・オランダ夏旅行(10)

(10)アムスにてスマホのない旅を思う

2013年9月6日 金曜日

 
●1. スマホのない旅
 翌朝は、たいしたプランはなかったが、再び自転車に乗って出かけた。市街地の西のほうに、しゃれたお店が立ち並ぶナイン・ストリーツという場所があるということをヒルトンのホテルマンにきいたので、とりあえずそこに向かってみる。
 
 途中、ヒルトンからホランド・カジノまでの間あたりで(つまりまだアムステルダムの市街地の中心部までは入っていないところ)、緑の樹々が気持ちよさそうな、黒を基調とした素敵なカフェがあったので、そこでブランチをいただく。
 もちろんオープンテラス。
 平日ということとお店の雰囲気から、オランダのマダム連に人気のようで、テーブルはブロンド・マダム・グループで埋め尽くされていた。私はフレンチ・トースト、夫はモーニング・セット的なものを頼んだが、そのフレンチ・トーストと、夫のクロワッサン、それからコーヒーが、とても都会的に洗練された、しかし東京では味わえないような美味しいものだった。お店の名前をメモしておかなかったのが少々悔やまれるほどである。フレンチ・トーストは、薄めのパンをカリカリに焼いているのだけれど中に味がぎっしりしみていてややひたひた気味なほど。その上に、シュガーパウダー、いちご、シロップ少々がかけられていて、最後にミントで飾りつけ。クロワッサンも外はかりっ、中がほわっほわで、夫は感動していた。
 
 ナイン・ストリーツおよびその近辺をサイクリングしていると、アイスクリーム屋さんがあって、たくさんの人たち、主に家族連れが並んでいた。私たちも食べてみようと並んで食べた。おいしかったのだが、それ以上に驚いたのは、その家族連れの半分くらいはお父さんが子どもをつれていたことである。金曜日の昼下がりにお父さんが子どもをアイスクリーム屋さんに連れて行く、機内で予習したとおりの素敵な社会だなあと感心した。
 
 それから、おしゃれなインテリアショップやTシャツのお店、チーズ専門店などいろいろ見ながらサイクリングで1日を過ごした。途中、今回の旅ではじめての雨にも遭遇し、バーやカフェで雨宿りもした。
 昨日と同様にサイクリングに集中し、道に迷ったりする中、思った。
 
 スマホがないこと。
 正確にはiPhoneはもっているけれどインターネットができない状況にあること。
 そのためにグーグルマップが使えなかったり、グーグルでおいしいお店や船や電車の時刻や遊び場所を調べられないこと。誰かからLINEが来ることもないこと。
 今回の旅はほとんどずっとこの状況だった(ギリシャの最初のホテルでは時々Wi-Fiが使えたりしたが、それくらいだった)。
 この状況って、なんというか、すごく落ち着く。
 なぜか。論理的に説明しようとすれば、説明できるだろう。でも、ここではあえてそれは避けたい。
 この原始的な状況に「落ち着く」感覚、それこそが答えそのものなのだと思う。
 テクノロジーが、人を不安定にしていく。
 「法律や政府よりも、実際は経済やテクノロジーに構造を規定されている現代社会」にユナボマーは警鐘を鳴らした。
 
 旅としても、スマホのない旅はより旅らしいし、日常生活としても、スマホのない日常生活はより日常生活らしい。
 そして、心が安定する。
 
 そんなふうに思った。
 
 
●2. 新婚旅行らしく
 日は暮れて、さすがに自転車で動き回って疲れたねと。最後の晩だし、ゆっくり新婚旅行らしい時間もすごしてみようか、と、アムス市街地の運河にかかる橋の上のベンチにふたりで座ってみる。新婚旅行らしくロマンチックな時間をすごせるかと思って座るやいなや、見るからに薄汚い格好をした老人が、からだじゅうを震わせて
 
 「たばこを1本くれんかね?」
 
 と物乞いしてきた。彼はあきらかに震えていて麻薬中毒か何かのようにも見えた。優しい夫は、落ち着いた様子で、オッケー、とアメリカン・スピリットを1本渡す。老人は、手を上げて、もらったたばこを、ありがと、と去っていく。と、思いきや、
 
 「もう1本いいかね?」
 
 とさらなる物乞いをしてくる。これはきりがないと思った私たちはその場を無言で立ち去る。ロマンチックとは程遠く。
 
 最後の晩餐はさすがに素敵な場所で食べたいと、街の本屋さんで素敵なフレンチレストランを調べた。フレンチinオランダ。このフレンチレストランも残念ながら名前を覚えていないのだが、黒でまとめたシックな内装で落ち着いてゆっくり話せた。夫はオランダに来てから私の口数が少ないことを少々気にしてくれていたみたいで、こんな会話をしたのを覚えている。
 
 「たぶん口数が少ないのは、無駄なことを考えないで常にきもちよくいられている証拠なんよ」
 「ふうん。そんならいいけど」
 「機嫌が悪いわけじゃなくって、むしろ理想でもある『禅』の状態に近い感じがするなあ」
 「『禅』???」
 「うん。日本でもいつもこうあることができたらいいなってくらいにね」
 
 そう、普段の生活では、私は考えすぎているし、感じすぎている。自分が感じたことを言語化しすぎている。それは時に素敵なことだし、それが自分の特徴でもある。
 しかしこのアムスでの状態、つまり、まったく何も考えない状態。正確に言うと、自分が感じたことを言語化しない状態、感じたことはすべて時間の流れや風景の流れとともに過ぎ去っていくような状態。これは想像を超える素晴らしさだった。
 と、後になって思う。むろん、このときは何も感じていないに近い状態なのだから、素晴らしいとかそういうこともあまり感じていないのである。
 
 新婚旅行らしく過ごそうとふたりで気が合ったこの晩は、ヒルトンに帰ってもお酒を一緒に飲んだりと、フレンチレストラン以降はまさに新婚旅行らしく仲良く楽しく過ごした。雨降り後のアムスの晩は、涼しく湿っていた。

ギリシャ・オランダ夏旅行(09)

(09) feels good in アムス

2013年9月5日 木曜日

●1. 自転車天国
 翌朝は、気持ちのいいお天気で、前日とはうってかわって、半袖でも十分な気温だった。私が出かける前にシャワーを浴びたり準備をしている間、夫は暇なのでひとりで公園でも散歩してくるとふらっと出て行った。
 戻ってくるなり、彼は言った。
 「あー、めっちゃ気持ちいいよ、外。でね。やっぱり、ホテル、別のとこに移る?」
 
 昨日の私は、決してテンションを下げるようなところは見せなかったはずではある。しかし、いつも一緒にいる夫にはホテル・ショックのテンションをやはり少なからず感じさせてしまったのだろう。私は彼のいつもながらの優しさに感謝しつつも申し訳ないきもちでいっぱいで、
 「いやいや、だいじょうぶだよ。ここで」
 と返した。しかし、彼も引き下がらない。
 「でもさ、せっかくの新婚旅行だし、少し多く払っても、ちゃんとさ、ひと息つけるようなところのほうがよくない?」
 「う、うん・・・でも・・・」
 こんなやりとりが何往復か続いた後、結局、ヒルトンに移ることになった。彼の言うことには一理あった、というか、実際は私も彼が言ってくれたことに同じ価値観だった(せっかくの新婚旅行だし、のくだり)。彼が私を思ってくれて合わせてくれて言ったのか、彼自身も本当に同じような価値観でそういってくれたのか、そのあたりはよくわからない。彼はそういう優しい人なのだ。
 
 とにかく、モーテル風ホテルには申し訳ないけれど、モーテル風は脱出することにした。本来はこのモーテル風に3泊する予定だったのだけれども。モーテル風を出る前に、フロントの女性は
 「どのあたりが悪かったかしら?」
 と訊いてきたけれど、私たちはなんとも答えず
 「ノー、ノー、イッツオーケー」
 とだけあいまいに答えて出た。モーテル風のキャンセル料金も払ったわけだから、決して悪いことをしているのではない。それでも少し失礼な気持ちがした。
 ヒルトンは歩いて10分ほどのところにあったのは不幸中の幸いだった。ヒルトンは、とっても清潔で、居心地よく、ホテル変更はやはり正解だったと思う。
 
 ヒルトンでは自転車の貸し出しもやっていたので、レンタサイクルショップに行く手間が省けてさらに好都合だった。1日15ユーロくらいだったと思う。
 その自転車に乗って、さっそくゴッホ美術館とその隣にあるミュージアム広場へ向かう。風と太陽がほんとうに気持ちいい。ゴッホ美術館に入る前に、今日は何も食べていないことにようやく気づく。ホテル騒動で忘れていたのだ。ミュージアム広場の脇にある屋台のホットドッグを買って、ケチャップとマスタードとピクルスとサラミチップ的なものをたっぷりとかけて、広場の端っこで芝生に座って、ぱくっとぱくつく。広場には、多くの人々が適度な人口密度に散らばって思い思いに時を楽しんでいる。私たちのすぐそばには、小学校の休憩時間(あるいは課外授業?)と思われる小学生30人ほどと大人3人ほどがいて、大人たちはオランダ国旗カラーのアイスキャンディーを子どもたちに配っている。ザ・ゲルマンである超金髪超白肌のオランダの子どもたちは見ているだけでも美しく、それらが飛び跳ねながらアイスを受け取って、ぺろぺろなめながら自然と何人ずつかのグループに分かれておしゃべりをしたり、一人で芝生に座って食べたりしている。
 ホットドッグと緑と美しい外国の日常風景。なんでもない幸せってこういうことを言うんだなあ、と感じるひととき。
 
 ゴッホ美術館を観てまわってから、再びミュージアム広場に出て、オランダのお菓子、ストロープワッフルの屋台を見つけたので、食べてみる。結果、想像とは違う食感で、中のシロップがめちゃくちゃ歯にくっつくお菓子であった。それから、ミュージアム広場の有名な「I amsterdam」のオブジェがにぎわっている中、そこで記念写真を撮る。
 この後は、自転車に乗って、とにかく街中を回った。市街地の中心であるダム広場、アムス中央駅を抜け、中央駅の裏の運河に面して建っているシロダムというカラフルでおしゃれな集合住宅を見に行った。市街地をちょっとだけ川側に出たところ。これは現代建築として非常に有名とのこと。
 さらにそのまま中央駅から見て裏の方角には、大きな川の湾の中に島が点在していて、橋を渡りつないで、有名な橋、通称アナコンダ橋へと向かう。アナコンダ橋は赤とその上下にうねりにうねるその形が有名とのことで、行ってみると、思いのほかサイズが小さく、しかし小さい分、うねりはさらに大きく感じられ、坂の傾斜も大きく、おもしろい橋だった。私たちは自転車を止め、歩いて対岸まで橋を渡って、それからまた戻ってきた。橋の入り口には制服を着た2人の男がいた。1人は白人、1人は黒人であり、一見ガードマン風ではあるが非常に暇そうである。周辺は観光客が多いというよりはふつうに人が居住している雰囲気の場所で、空き地では大学生と思われる男子10人ほどが輪になってサッカーボールで独自の遊びを展開しているほどのどかである。ガードマンが必要そうな空気はみじんも感じられない。私たちはその制服組が気になって、いったい何をしているのかと訊いてみた。
 
 「何って一応見張りってことになってるよ」
 「ときどき、危険なことするやつがいるからさ。橋の上から川へジャンプしたりだとか」
 
 2人はやる気なさそうに、あるいは暇すぎて活力をなくした人のように、答えてくれた。なるほどね、と一応納得して、私たちは自転車に乗りその場を去ったが、自転車に乗りながら夫と一緒に「あれは暇だよね」「いい仕事だね」と感想を言い合った。
 
 この後は、自転車に乗って、市街地の中心に戻って、売春で有名な飾り窓近辺を通ってみたり、コーヒー・ショップ(マリファナのカフェ)もいくつか見かけた。それから大麻ミュージアムもいくつかあって、いくつか入ってみた。
 
 こう書いてみると、アムスではどこどこへ行った、あそこにも行った、という記憶しかないんかい、という感じがする。しかし、アムスの最大の楽しさ、それはこの自転車だった気がする。自転車に乗っていると、なんというか、無駄なことを頭で考えず、気持ちよさに身をゆだねることができる感覚になる。たぶん、体を動かしていることや、危険な事故に巻き込まれないようある程度乗っていることに集中していること、夫から離れないようついていこうとがんばってペダルをこぐこと、とかそういったいろいろなことによって、そんな感覚になることができるんだと思う。それでも、つらい、きついと感じることはない、なぜならアムスという街は、素敵なオープンテラスカフェや緑にあふれ、洗練された現代建築物と古き良きヨーロッパ風の建物が隣り合わせで混在しており、中心街に行けば多国籍感やマリファナ臭のする無法地帯感も味わえ、人々は楽しそうに自転車に乗り(ほんとうに自転車が多い!)、風はきもちよく、この日はお天気も最高という、なんとも贅沢な楽しい街だからだ。
 
 そんなこんなで日は暮れて、夕飯は、昼間のサイクリング中に見かけた、市街地の中心を流れる運河に面したカジュアルなレストランで食べたい!とそのおしゃれなオープンテラスの(ギリシャは暑いからオープンテラスなのはわかるが、オランダも涼しい気候ににも負けずみんなオープンテラスが大好きだ)お店に向かって自転車をこいだ。しかし、そのお店はなかなか姿を現してくれず、迷路のようなアムステルダムの街を私たちは迷子のようにさまよっていた。そして、気づけば、何度も同じ道、同じお店に戻ってきてしまい、その迷路っぷりはミコノス・タウンも顔負けといったところだった。
 ようやくたどり着いたそのレストラン、期待していたのだが、味のほうは今回の旅行の中で最低の味だった。夫のほうはグラタンのようなものをいただいて、これはまだ食べられる味だったが、私のほうは豚肉のなんとかソースがけで、このソースがアメリカのバーベキューソースをさらに味の質を落としたような、得も言われぬ不思議なまずさだった。豚肉もぱさぱさと硬く、味気なかった。というわけで、申し訳ないけれど、ほとんどここでは食べなかった。

 
●2. 東南系@ホランド・カジノ
 夕食のあと、自転車でホテルに戻って、正装に着替える。楽しみにしていたカジノに行くためである。昼間は動き回るから、ショートパンツにTシャツ、サングラス、コンバース(ネイビーのオールスター)。夫も昼間はTシャツにカジュアルなパンツ、サングラス、コンバース(白のジャックパーセル)。しかしカジノは正装が必要とされるとガイドブックに書いてあったため、私はワンピースに黒タイツとハイヒール。夫も高級なシャツとパンツにベルトと革靴。このためだけに、靴が余分に一足必要だったわけだから、スーツケースの無駄使いといえば無駄使いである。でも、カジノに入れないという事態は招きたくなかったため、きちんと持っていった。
 
 その正装で、再び自転車に乗る。正装と自転車はあまり似合わないが、とにかく自転車が便利だし気持ちいい。
 せっせとこいで市街地中心部に入る手前にあるホランド・カジノに着く。カジノ自体は大きく立派でやや高級感もあるのだが、カジノのまわりには、競馬場のまわりにいそうな、あるいは人気のサッカー試合のスタジアムの外にいそうな、やさぐれた、少し危なそうな男が7、8人うろついていた。目を合わせないようにして、そそくさと建物の中に入る。
 
 建物の中にはすぐにエントランスがあり、がらんと天井が高い。入場料は5ユーロと良心的。1階の奥に部屋に進むと、客同士で戦うポーカーテーブルがいくつも並んでいる。テーブルはほぼ満席。やってみようかとも思ったが、あまりにみんな玄人戦士っぽいので躊躇し、結局2階へ。
 2階は、客同士で遊ぶというよりは、きちんと店のディーラーやらが仕切ってくれている場所だった。ポーカー、マルチポーカー、ブラックジャック、ルーレット、それ以外にもいくつかのゲームがあったが、私たちがわかったのはその4つ。夫は友人からバカラがおもしろいときいていたらしく、バカラがないことを残念がっていた。それでも、時折お酒をたしなみながら、それでもほとんどゲームに2、3時間の間遊びに集中し、とても楽しかった。結果、私13000円ほど、夫8000円ほど、それぞれ勝った。
 
 なお、実際のところ、中に入ってみると、正装という正装の人はさほどおらず、みんなジーンズやチノパン、ポロシャツや中にはTシャツの人もいたと思われる。私たちは「正装損」をしたわけではあるが、カジノに入れないかもしれなかったというリスクに比べれば、やむを得ない。
 
 途中、ブラックジャックに夢中になっていた時間帯に、ずっとゲームには参加しないで、解説者のように横でごちゃごちゃとしゃべっている男がいた。高い声で早口に、彼は延々としゃべり続ける。見た目は東南アジア風、タイかベトナムか、そういった感じの人種だが、英語は達者である。もしかしたら「日系アメリカ人」のように「東南系アメリカ人」なのかもしれない。
 私たちは、この人はきっと尊敬すべきブラック・ジャックオタクであるに違いない、したがってこの人に訊けばいろんなことを教えてくれるに違いない。そう思って、話しかけてみた。すると、流れるようにするするとしゃべってくれる。東南アジア人特有の鋭い眼光を放ちながら。
 
 「ディーラーのアップ札が6までの場合は、こっちは絶対ステイしないとだめなんだよ」
 「こっちが17以上の場合は、絶対ステイだよ」
 「ダブルダウンっていうのは掛け金をオリジナルの2倍に追加することができるけど、ヒットは1枚だけしかできなくなるんだよ」
 
 テーブルを離れようとした後も、彼はわざわざこちらに来てくれ、
 「また、何か教えてほしいことがあったら、呼んでくれ」
 とぽんぽんと私たちの肩を叩いて去っていった。おそらく、彼は真のブラックジャック・オタクなのであろう。
 
 こうして、この東南系とともに私たちのカジノの夜は更け、深夜3時の閉店後、ヒルトンに戻って爆睡した。
 

ギリシャ・オランダ夏旅行(08)

(08) ロンドン経由でアムステルダム

2013年9月4日 水曜日

 
●1. サンダル事件
 十分波乱に富んだザキントス島日帰りの旅を終え、この日は移動の日だった。そう、愛すべきギリシャにお別れをして、オランダに旅立つ日である。まだまだこの平穏と幸福の島ケファロニアをゆったり堪能したい気持ちでいっぱいだった。ペタニ・ベイ・ホテルの元気印の女将も「あー、短かったわね!また今度ゆっくりいらっしゃい!」と豪快に笑って送り出してくれた。
 
 ケファロニアからアムステルダムへは、ロンドンのガトウィック空港を経由して行くルートだ。午前中にケファロニアを発って、お昼過ぎにロンドンに着き、2時間以上の待ち時間を経て、アムス行きのフライトに乗る。アムスに着くのは17時とか18時とかそのくらいになる予定の旅程である。
 
 ケファロニアからロンドンへの飛行機では、ふたりでふざけながらポーカーやUNOに興じる。こういうなにげない移動時間が私は大好きだ。一人旅でも、誰かと一緒の旅でも。ふざけていても、だらだらとしていても、好きな本ばかり読んでいても、誰にも文句はいわれない。だって、今私は(あるいは私たちは)「どこかへ」移動しているんだもん。極めて個人的世界に入り込んでも、生活の役に立つ実用的なことを何一つしなくても、なんとなく言い訳が立つような感覚。
 
 ロンドンのガトウィック空港では、一応ヨーロッパ内とはいえ国から国への乗り継ぎだということからか、いろんなところに並んでいろんな手続きみたいなものを済ませなければならなかった。人の列には、ロンドンらしくおしゃれなファッションに身を包む人たちもたくさん見かけた。それから、私たちがアムスへ行くのに使ったEasyJetという航空会社は、おそらくヨーロッパ内でめちゃくちゃ繁盛している格安航空会社なのであろう、チェックインカウンターには長蛇の列といっても足りないくらいの超行列ができていた。
 
 さて、成田で問題になった「パスポートの有効期限問題」、これがこのロンドン入国で再び問題にならないか、それを少しだけ懸念していた。
 
 もはやギリシャでは何の問題もなかったため、同じシェンゲン領域国のオランダへの入国は問題ないのではないか。
 ただしイギリスはシェンゲン協定に署名していない。だからイギリスではしっかり入国審査をされてしまうのだろうか?
 しかしイギリスの必要とするパスポート残存期間は「帰国の日まで」である。
 それでもその次に行くオランダが必要とするパスポート残存期間は、ギリシャと同様「帰国の3ヶ月前まで」である。そうするとどういう審査になるのだろう?
 
 などと、ややこしいことをもろもろ考えながら、ガトウィック空港では不安の影が差していた。それでももろもろの審査やらの手続きは終わり、最後にEasyJetのチェックインカウンターで、「列長いなあ」と思いながらも、ひと安心しながら列に並んでいた。
 
 そんなとき、ようやく私たちがチェックインできる番が来た。カウンターの金髪女性がおもむろに
 「パスポートの有効期限が今年の12月になってるわね。これ大丈夫かしら?」
 と、あまりに自然に、あまりになにげなく、疑問文を投げかける。私の心臓はどきどきと鼓動が早まり、目は大きく見開いてくる。
 「ちょっと確認してみるわ」
 と彼女は電話をとり、内線か何かで誰かと早口で話している。
 
 「あのさ、パスポートの有効期限が今年の12月っていうパスポートの人がいるんだけど、これって大丈夫よね?ん?問題ない?オーケーオーケー、了解」
 
 電話を切ってから、「問題ないわ」と彼女。私は思わず安堵の笑みをこぼした。
 
 そこから、搭乗ゲートまで。これがまた空港がものすごく広くて、大変だった。しかも、搭乗ゲートを示してくれる運行掲示版は、搭乗の10分前にならないと、どの搭乗ゲートに行けばよいのかを示してくれないとのこと。そんな空港はじめて!と面食らった私たちは、とりあえずランチとしてそのへんのお店でドーナツを買って、ゆっくり食べて時間をつぶす。ほどなくして、待ちに待った搭乗10分前。運行掲示板に、搭乗ゲートの番号が出た。標識にしたがって、そのゲートへと向かう。しかし歩いても歩いても、曲がり角を曲がっても曲がっても、目的のゲートにはたどり着かず、ただ長い道が次々と現れる。
 「これ、めちゃ遠いじゃん」
 「10分で行ける距離じゃないよね」
 「苛酷すぎるじゃろ」
 「まじ苛酷」
 ザキントス島以来「苛酷」が流行語になっていた私たちは、「苛酷」を濫用して、大変な状況をも笑いに変えていた。
 だんだん、ゲートの遠さがわかってきた私たちは、いつのまにか必死になって、ほとんど駆け足に近い速さで歩を進めていた。
 
 そのとき、後ろからバタンバタンとなにやら騒がしい音がする。左を見ると、ベージュの素敵なタイトスカートのスーツを着た40代と見える金髪女性が、騒がしく私たちを追い抜いていく。彼女は白人にしては細身で、そのキャリアウーマン風のいでたちからは知的な雰囲気も醸し出されている。そんな彼女の騒がしい音の正体、それは彼女の華奢でおしゃれなサンダルの片方の靴底が、べろんとはがれて大変なことになっているのであった。しかし私たちと同様に非常に急いでいる彼女、そのサンダルべろんにはおかまいなしに、私たちよりさらに早足で、必死の形相で歩き続けているのである。
 
 滑稽なる大惨事!
 
 私たちは思わず笑ってしまっていたので、おそらく彼女も笑われていることに気づいたのだろう、何かその事態をごまかすように、ひとりで「マイ・シュー!(もう!私の靴!)」などとぶつぶついいながら、私たちの前を行く。そして、動く歩道に乗ると、とうとう、両足のサンダルを脱いだ!さらに加速し、走る!私たちも、笑いながらもサンダル女史に負けてはいけないと、走り始める!
 
 結局、最終的にめざしていたゲートは彼女と私たちは違うゲートだったので、彼女が間に合ったかどうか、定かではない。しかし、私たちは、このサンダル女史のおかげもあって、なんとか間に合ってゲートに到着した。
 
 
●2. オランダ予習
 ロンドンからアムスへの飛行機内では、オランダという国の予習をした。ガイドブック(地球の歩き方)も読んだし、それから「残業ゼロ、授業料ゼロで豊かな国 オランダ」という本を読んだ。そう、私にとってのオランダという国のイメージは、かなりのフリーダム(売春、マリファナ安楽死、ゲイ結婚、カジノなどの合法化または実質的な合法扱い)と、ワークシェアリングで一人一人の労働時間が少なく夫と妻が平等に働き平等に育児をする、というなんともユートピア的なものだった。なのでその知識を深めたいと、機内で本を読んだというわけである。
 
 地球の歩き方からわかったこと、それは、オランダではとにかくみんな自転車に乗ってるから、自転車借りたら便利だよってこと。あとは、オランダ人の平均身長は世界一だということ。
 
 「残業ゼロ」の本のほうは、正直、オランダに旅した後で考えると、旅行自体に役立ったとはいい難い。しかし、私はこの本にはそれは期待していなかったから、問題ない。この本では、オランダ人のメンタリティを文字を通してではあるが理解できた。
 
//この本の一節より引用その1
 「・・・らしさ」は、日本では今も期待されている。他人からの目。無言・無意識の他人からの期待にしばられて、自由に自分らしく行動することが難しい。
 「・・・らしさ」を気にしないでいられるオランダのような社会では、自分はどう生きたいのか、自分は何者なのかを常に考えそれに矛盾しないように行動することをしばしば厳しく問いかけられる気がする。

 
//この本の一節より引用その2
 (親の子供との接し方について)
 わざと世話は焼かず、自分はどんと腰掛けたまま、「自分でやってみてごらん」と自立を促し、少しでもできたらすかさずほめる。一方、自分の子供が助けを求めているときには、他人の視線は気にせず、からだいっぱいの態度で愛情を注いでやる。

 
 そんなオランダには、パートタイム就業を正規雇用(年金、有給休暇、社会保障の対象)として認めるワークシェアリングが根付いている。この結果、労働者が労働時間を選んで仕事を選べるようになり、雇用機会が増えて家計収入も増大し、失業率の低下にもつながったとのこと。ある家族のモデルとして、母親が週3日出勤(平日2日は育児)、父親が週4日出勤(平日1日は育児)、残りの平日2日は保育園に預ける、というモデルが紹介されていた。
 これをどう感じるかはもちろん人によると思う。私にとっては理想的な社会に見える。
 
 このあたりまでは、なんとなくの知識で、なんとなく知っていた。
 
 この本で新たに知ったのは、この形を実現し、根付かせたのは1982年の「ワッセナーの合意」であることだ。オランダ製品の国際競争力の低下と失業率14%という高さを背景に、政府の支援により、雇用者団体と労働者団体との間で、賃金の削減と、雇用確保のための労働時間短縮について合意したのだそうだ。
 問題は、これがワーカホリック大国、日本で実現可能か?というところにあるが、やっぱり、失業率もさほど高くなく、メンタリティ的にもワーカホリックで遊び下手な日本人にはなかなか難しいんだろうかないかなるものか。みんな、そんなに仕事がしたい?みんな、そんなにお金がほしい?
 
 そんなこんなを読みながら、アムス到着。アムスに着いたのは夕方で、近代的にきれいで清潔な街は素敵だったが、ギリシャに比べると、9月初めのアムスの空気はひんやりとしていた。長袖の厚手のパーカーを羽織るのがちょうどいいくらいの気候。
 
 到着したホテルは、想像していたよりもかなり小さくかなり古い代物であった。ギリシャで泊まった夢のようなホテルたちとは雲泥の差だ。もちろん、アムスは都会だしのんびりホテルで過ごすというよりは街に出てすごしている時間がほとんどだと思うからと、意図的に、ギリシャよりもグレードのだいぶ低いホテルを選んだのは確かである。しかし、こんなにも横幅が狭くてエレベーターすらない宿だとはきいていない。フロントのにいちゃんは(フロントというよりもカウンターといったほうがしっくりくるような小さなフロントである)、金髪くるくるパーマで愛くるしい顔立ちはしているが、なんともバイト風の感じである(失礼)。とりあえず一生懸命、重いスーツケース×2人分を夫が階段で運んでくれ、部屋に着くと、「ダブルベッド」を予約したのに「ツインベッド」の部屋であった。
 「まあ、しかたないよね!」
 「まあまあまあ、アムスだし、ね!こういうのもいいじゃん!」
 お互いに下がってくるテンションを隠しつつ、励ましあう。むろん、ホテルで長居はせず、早々に夜のアムスに繰り出す。アムスの繁華街は、多国籍感が満載で、マリファナのにおいにしょっちゅう遭遇した。多国籍の中の、適当なイタリアンレストランで食事をとって、ワインとビールで酔っ払ってぼーっとした私たちは、結構な時間をかけて歩いてそのモーテル風のホテルに戻り、眠りについた。

ギリシャ・オランダ夏旅行(07)

(07) 荒々しき島、ザキントス島での苛酷な一日

2013年9月3日 火曜日

 
●1. ザキントス・ブルー
 
 この日は早朝から、ケファロニア島のペサダというところから出ているフェリーに乗って、お隣の島、ザキントス島へ。
 
 紅の豚のモデルになったというシップレックビーチがほとんど唯一の目当てである。
 シップレックというのは難破船のことで、70年代にこの浜あたりに乗り上げてしまった船がそのままになってしまっているということ。崖に囲まれた小さな砂浜と真っ青な海、そしてその難破船が絵葉書のような絵を作っている場所。
 あとはこの島にも「青の洞窟」があるとのことで、この2つが唯二の目的地といったところである。
 
 ザキントス島へのフェリーは、日本から予約しようと試みたのだけれど、ネット予約はおろか、電話ですら1週間前にならないと予約は受け付けないという意固地なローカルっぷり。
 1週間前に日本からなんとか電話予約したが、予約番号なるものすらなく、
 「あなたの名前を言えば大丈夫だから」
 といわれた。
 
 ということで、とりあえずフェリー乗り場でチケットを買う。
 名前も何も予約のことは一切訊かれない。予約の有無すら訊かれない。だが、チケットは買うことができた。フェリーには、例のHertzで借りたオートマ車ごと乗った。ザキントスでも車がないと厳しいみたいだったから。
 フェリーの中は、そこそこ人はいて、数十人といったところだろうか。その中には、アメリカ人と見られる、あごのない太ったおじさんとごく普通の中年女性のカップルが、仲睦まじく、体を寄り添っていた。あの太り方、あのあごのなさはアメリカ人と推察される。アメリカ人もこんな場所まで来るんだなあ。
 
 ザキントス島に着き、早速、シップレックビーチへ連れて行ってくれるボートの予約小屋に向かう。
 シップレックビーチは島の端っこにあるのだけれど(ビーチだから当たり前)、ここに行くには断崖絶壁すぎて、車では行くことができない。だから車ではなく小さなボートで行く。それが唯一の方法である。15人乗りくらいの、小さなボート。
 ボートの予約小屋は5〜6軒あって、それぞれが四角い木造りの、人が一人二人立って入れるような小さな縦長の箱のようなものの中に人が立っている。そこでみんなが多少の価格競争をしながら、がんばっている。
 
 いくつか予約小屋をまわったところ、10時出発と11時出発があるとのこと。今の時刻は10時ちょっと前。急ぐのも好きじゃないし、水着を下に着ておきたいし、おなかもすいたし、なので11時出発にしようか、とチケットは買った上で、港近くのカフェで休憩。
 
 10時半頃になって、そろそろ早めにボートの場所に行っておくかなと再び予約小屋A(一番繁盛してそうなところ。私たちがチケットを買った小屋)に行ってみると、そこの店番の彼女、
 「ごめんなさい、ちょっと11時出発のボートは出発しないかもしれない」
 と申し訳なさそうな顔を精一杯に作って言ってくる。
 
 「え???」
 
 私たちはまたもハプニングの予感のするこの一言に、注意深く反応する。
 
 「今日は波が荒くて、もうボートが出られないかもしれないの。10時出発のはさっき出たんだけどね。11時出発のは無理かもしれないの」
 
 
 私たちの頭を絶望の二文字がよぎる。
 
 
 シップレックビーチのためにこの島にはるばる来たのに・・・?
 
 
 「もしも欠航になったらお金は返金するわ」
 

 あわてて、他の予約小屋をまわる。予約小屋Aは欠航するかもと言っているが、みんなどこも同じ状況なのか?
 
 予約小屋B(無責任そうだけれど調子だけは良さそうな大柄なおじさんゾルバが、スーパー内の小屋で経営している)
 「今日はわからない。まだわからない。波が大きすぎるから」
 
 予約小屋C(フェリーの港のすぐそばの無口でぶっきらぼうな翳のあるおじさんゾルバ)
 「今日は無理だ」
 
 予約小屋D(なぜか港から結構歩くところにある若めのにいちゃんゾルバ)
 「大丈夫だと思うよ!」
 
 希望の光が見え始める。
 
 予約小屋Dのにいちゃんゾルバ(つづき)
 「俺の本部はあっちにあるから、一緒に行こう」
 
 本部?
 
 とにかくその本部に向かって、にいちゃんゾルバと私たち3人で歩き始める。
 
 「日本人かい?」
 「うん」
 「ヤクザ、知ってる?」
 
 もちろん、アクセントは「ク」にある。
 そして唐突である。
 
 「ヤクザ?」
 「うん」
 「もちろん、知ってるけど。ヤクザが何?」
 「みんな、このあたりの予約小屋のやつらは、ヤクザなんだよ」
 「???」
 「マフィアとヤクザ、同じようなもんだろ」
 「うん、まあ・・・」
 「みんなね、適当なこと言ってるんだ。波が荒くて欠航だとか何とかさ。人をだましてさ。欠航なんて、ないさ!みんなマフィアだよ。気をつけろ」
 「ふうーん。(いったいそれのどのあたりがヤクザまたはマフィアなんだろうか???)」
 
 てくてく歩いて、彼の本部に到着。
 その本部とは、なんとさっき私たちが訪れた予約小屋B(スーパー隣接)だった。
 
 予約小屋Bの無責任おじさんゾルバ(あくまで見た目)が何やら険しい顔をして携帯電話で話をしている。
 予約小屋Dのにいちゃんゾルバは、「どう?」みたいな顔で無責任おじさんゾルバと目で会話をしている。
 無責任おじさんゾルバは険しい顔のまま、電話を切る。
 
 
 「やっぱり無理だ。今日は欠航だ」
 
 
 さっきまで欠航なんてないとのたまっていたヤクザ好きのにいちゃんゾルバは、驚くふうでもなく、そうか、と頷き、
 「ごめんよ」
 と一言置いて軽やかな足取りで去っていく。
 
 
 こんなのってない。
 もはや本当の絶望だった。
 なぜなら他にやることがない島に残されたあげく、計画変更になったから早めにケファロニア島に帰りたいと思っても、無理なのだから。
 なぜならザキントス島ケファロニア島の間のフェリーは、行きと帰りで1日1便ずつしかないから。
 
 空は真っ青な晴天で、悪天候の「あ」の字も見えない。それでも、シップレックビーチのあたりの波は本当に荒いらしい。
 
 海辺の岩場のちょっとしたスペースにあるテーブル席のようなところでとりあえず気を落ち着ける。私のほうはまだ大丈夫だけれど、感情の起伏のあまりない夫のほうが今回は落ち込んでいる。それもそのはず、彼は宮崎駿の映画が好きで、特に紅の豚が大好きなのだ。シップレックビーチに行きたいというのももともとは彼の発案だった。

 「仕方がないね」
 「うん」
 「まだ、ザキントス島の『青の洞窟』にも行けるし!それにシップレックビーチを崖の上から観ることができる場所もあるってガイドブックに書いてあったし。あとで行ってみよ」
 「うん」
 
 彼が落ち込むのも無理はない。誰にも非はない。彼は落ち込むと回復に時間が長くかかるほうだ。そっとしておけばよいものを、なんとか回復させようと私がむやみに話しかけて墓穴を掘ってもっと二人の雰囲気が悪くなる。
 
 「とりあえず、『青の洞窟』行きのボート乗ろっか」
 
 無言で暗い顔で15人ほどで満員の、モーター駆動のボートに乗り込む。私たち以外はみんな白人だ。子どもも多かった。そして現地のゾルバ1名が運転手である。真っ青な海の上の小さな船の上、日差しがもろに肌に突き刺さる。逃げ場はない。顔が自然と険しくなる。ザキントスの『青の洞窟』は海側から海岸線を見たときに見える洞窟風の岩の連なりで、本当に岩に覆われて内側に存在する洞窟というのとは少し違っていた。景色を見たときの感動、という意味ではケファロニアの『青の洞窟』のほうが圧倒的に素晴らしかった。それでも、ザキントスはザキントスで、一味違う楽しみを与えてくれた。
 
 「はーい、ではここでボート一旦停止しまーす」
 
 ボートのエンジンが止まる。岩場に近いが、浜や浅瀬などはない、海のど真ん中である。
 
 「みなさん、ここで20分時間がありまーす。好きなように泳いでくださーい。集合をかけるから、声が聞こえる範囲でね!」
 ゾルバ運転手は、日焼けした顔をにこにこと輝かせて大声で言う。
 
 みんな、上着を脱いで水着になる。船上からザッバーン!と子どもたちが一番に飛び込む。それから、おじさん、おばさん、おねえさん、おにいさん、みんなが勢いよく飛び込む。水泳の得意な夫はすでに飛び込んで、笑って手招きをしている。と、思ったら、何かに気付いたようで、急いで海に再びもぐる。30秒ほど経っただろうか、まだ水の上に顔を出してこない。どうしたのだろうと思っていると、カメラを上にあげて笑顔で顔を出した。
 
 「カメラ落としてしまっとった!よかったー!」
 
 あぶないとこだった!!!
 そんなこんなを見届けて、私は飛び込むのが一番最後のほうになってしまった。それでも私も上着を脱ぎ捨て、勢いよく飛び込む。
 
 
 
 ここの海の色。
 
 
 
 絵の具で、幾種類もの青を、濃く塗り重ねたような、不思議に濃い青色。濃いのだけれど、群青色でもなく紺色でもない。水色もしっかりと見えるし、透明度もある、濃い青なのだ。
 もぐっても、この濃い青はそのままだった。これには本当にびっくりした!自分は、自然の景色とかそういったものを心から美しいとかって思うようなタイプの人間ではないと思っていた。どちらかというと、人間の心の動きや人間の造形美、要は物よりも人間に興味や美しさを感じるタイプだからだ。それなのに、この青、ザキントスの海の青には、ハートを討ち抜かれた、という陳腐な表現がぴったりくるほどの気持ちになった。なんだかすべてがどうでもよくなるような、この美しさ!そして水の気持ちよさ!砂浜や浅瀬がないということもあり、開放感が半端ない。自然の中に放り込まれた感じ!
 私たちははしゃいでいた。はしゃいで海の中でお互いにおどけたポーズやらふざけたポーズやらをとって写真を撮り合った。
 
 「なんか、あっちのほうは道みたいに見える!!!もぐって見てみんさい!」
 「ほんまじゃ!」
 
 夫はもぐっているうちに、海の中で、岩と岩にはさまれて道のように見える場所を見つけたらしく、それを教えてもらってふたりで大興奮。とにかく、子どものように遊べて、本当に楽しかった。20分なんてあっという間で、集合をかけられて、終わり。
 
 シップレック・ビーチに行けなくて暗くなっていたことなど忘れて、ふたりとも機嫌も治ってしまっていた。
 
 そのあとは気を取り直して、シップレック・ビーチを上から観るために、崖の上までドライブ。
 遠目に観たシップレック・ビーチは圧巻の絵だった。海の青さ、まわりの崖の芸術的美しさ、それらの常にみずみずしい自然の中で、ぽつんと浜に残された茶色い古い朽ち果てたような船。そのコントラストこそが、単純な美ではなく、どことなく物哀しい味のある哲学的な美しさを生み出していた。
 
 繰り返しになるが、シップレック・ビーチは、確かに、圧倒的すばらしさだった。ただし、このあたりから、ザキントスの苛酷道中が度を増してくる。
 
 
●2.苛酷道
 
 シップレック・ビーチをきれいに観るための場所に行くには、高い高い崖(おそらく標高500メートルくらい?)の上の岩場を結構な距離を歩かなければならない。そんなことまでは知らない私は、その岩場にやや厚底のビーチ・サンダルで臨んだ。岩場というのは、歩くのに普段取らない姿勢をとることになるため、意外と疲れる。さらに厚底ビーチ・サンダルで、15分も20分もとなると、結構な足の痛さである。
 
 車に戻ってきたときには、私の機嫌はかなり悪くなっていた。
 機嫌が悪いというよりは、ほんとうに足が痛くて疲れてしまっていた。
 
 靴は厚底ビーチ・サンダル、服装も青の洞窟で泳いだ以来着替えていない、水着とその上にパーカーを羽織った状態。水着は濡れたままだ。気温はめちゃくちゃ暑いから、濡れていても冷たくはないが、濡れたままというのは、気持ちいいものではない。
 それから、ザキントスの道は、舗装がきれいにされておらず、ほとんどの道がでこぼこ道だった。そのでこぼこ道を、例のHertzレンタカーで借りた小さな2人乗りの車で行くわけである。乗り心地がいいはずがない。
 さらに、車の中で音楽をかけようにも、いつもは後部座席に置いておく、iPhoneが差しこめるタイプのBOSEのポータブル・ステレオが、後部座席では道がでこぼこ過ぎて、不安定で、すぐに落ちてしまうのである。したがって、助手席の私がBOSEを抱えなければいけないという非常事態。
 
 崖歩きで疲れた足。濡れたままの水着の気持ち悪い感。でこぼこ道。BOSEを抱える。この時点で、すでに四重苦である。
 
 「どこ行く?」
 「とりあえず島の南の方面に行ってみたいかなー」
 
 ケファロニアに戻るフェリーの時刻まで、あと3時間くらいある。そして、もう行くべきところは行った。実際は、ものすごく行きたいところは、もうないのである。しかし、フェリーの時刻があるから、それまで時間つぶしをしなければならないという、四重苦の上に塗り重ねられる、五番目の苦。
 この五重苦のなか、私たちは何を目的とするでもなく、南のあたりのビーチを目指す。これが意外にも時間がかかり、ビーチに着いた頃には、フェリー出発まで残り1時間30分くらいだった。
 
 「泳ぐ時間、あるかな?」
 「どちらにしろ、私はもう疲れちゃったし、パラソルの下で本でも読んどるよ」
 「ちょっとだけ、俺、泳いでくるね」
 
 パラソルの下から見るザキントスの海は、なんと、荒れていた。強風という表現では足りないくらい、風が吹き荒れていた。
 
 これって、もしかして、ケファロニアに戻るフェリーまで欠航になってしまうパターンじゃ・・・。かすかな心配が頭をもたげる。 
 15分くらいすると、夫が無邪気な笑顔で走って戻ってきた。
 
 「そろそろ行こっか。結構時間やばいかね」
 「そうじゃね。シップレック・ビーチ観る崖から、1時間30分くらいかかったけぇ、フェリーの港には1時間あれば帰れるはずなんじゃけどね」
 
 帰ろうと車に乗り込んで、カーナビに「アギオス・ニコラオス」と入力する。フェリーの港の名前だ。検索結果0件。当たり前だ。これはケファロニアのHertzで借りた、しかも超ポンコツのカーナビだ。
 
 まずいな。
 
 道がわからない。
 苛酷がさらに私たちを追い詰める。
 
 二人とも、顔がまじめに焦っている。というか焦り以外の何物もない。残り時間は1時間弱。もしもフェリーに乗り遅れたら、この何もないザキントス島に一泊する必要が出てくる。さらに翌日からのアムステルダムへの出発フライトなどにも間に合わなくなる。
 
 とりあえず北と思われる方角に車を進める。途中の洋服屋さんで地図を見ながら道を訊ねる。道は通りの名前がついているわけでもなく、街の名前を目印に進むしかない。地図ももらったにはもらったが、地図の示す範囲は広すぎて、参考程度にしかならない。洋服屋さんのすらりと素敵な中年女性に教えてもらったことは、わかったようでよくわからない。が、とにかく焦っている。時間がない。とりあえず何回か、言われたとおりに曲がったけれど、本当に正しい道順で来ているのか、わからない。
 
 勘と、時折見かける街の名前の標識を頼りに、なんとなくくねくねと曲がり、高台のような丘のような場所にある村のような場所まで来た。このあたりで、もう一度訊いてみようか。まわりに何もない道に、ぽつんと古風な広々としたローカル・レストランがあったので、入って、訊いてみた。しかし、誰も英語がわからない。仕方がないので、店長風の老人と、地図に印をつけながらお互いに片言で会話する。
 
 「AGIHIOS NIKOLAOS」
 の場所にぐるぐると丸をつける。
 
 彼は、あー、あー、とわかったような顔をして、にこにこ頷いている。ここを出て坂を下って道なりに行けばいい、そういう風に指で指し示す。
 
 なるほど。坂は下ると。・・・そこから道なりって???具体的には全くわからない。
 
 それでもこれで会話は終了するしかない。何しろ時間がないのだ。とりあえず坂を下る。右手には平原があって、それから海が広がっている。まだ丘の上のような場所ではある。少し村らしく家々が建ち並んでいる風景に変わってくる。この道このままで合っているのだろうか?不安なまま、車を進め続ける。
 
 この丘の上の村には村人たちが多く行き交っていた。その大半は、家や店の外のテーブルに集まって、椅子に座ってのんびりと話に興じているだけである。とある白ひげの長老風のゾルバがやたら目立つ3人組が見えたため、港までの道を尋ねる。
 
 「アギオス・ニコラオス?それはこの道であっとる。これをまっすぐいけば、そろそろアギオス・ニコラオスと書いた標識が見えてくるだろう。ただな、おまえたち。帰りの船は、もうあと10分もせんうちに出るぞ。間に合わんのじゃないか」

 長老のその言葉に私たちがパニックになったのはいうまでもない。
 そう、私たちは19時を目標に進んではいたが、フェリーの正確な出発時刻を把握していなかった!19時まではあと20分はある!でもあの長老があと10分というならあと10分なのかもしれない!紙のチケットなるものは存在しないし、インターネットにも接続できず、正確な出発時刻を把握する手段はない。
 
 とにかくあと10分というなら是が非でもこのでこぼこ道を進むしかない。なんとなくいやな絵が頭をよぎる。フェリーに乗れず、このザキントスで嫌々一泊している絵だ。
 
 あと10分という長老のリミットはちょうど越えてしまったころに見覚えのある港の景色が目に入ってくる。
 
 「あー!ここじゃね!」
 
 一瞬、ふたりの顔に笑みが浮かぶが、すぐに、ふたりともその笑みを消す。長老のいうとおりだったなら、もう船は出発しているはずだ。
 おそるおそる、しかし超高速で、港まで車を運ぶ。
 そこで私たちが目にしたのは、港に並ぶ、車の列だった。これで、船が出ていないことは半分くらい確定だった。でも、もしかしたら他の島行きの船かもしれない。列の先頭あたりを見ると、船長風のユニフォームに身を包むすらりとした男がいて、これは行きの私たちの船の船長と同じ人物である気がする。
 
 「これはケファロニア行きのフェリーを待っている列ですか?」
 
 クールな船長はにっこりと微笑む。
 
 このときの私たちの安堵といったら!!!
 
 結局、船の出発は19時過ぎてからだったように思う。少なくとも、あと10分と長老が言ったときからは10分は優に超えていた。
 
 「あの長老、めちゃ嘘つきじゃね!」
 「まじ、嘘つきじじいじゃね」
 
 結果、長老を嘘つきじじいと勝手に命名し、笑えるような事態になって、ほんとうによかった。長老には申し訳ないけれど。
 後に旅の写真を見てみると、シップレック・ビーチを崖の上から見た写真の後は、一切写真が残っていない。写真を撮る余裕がなかったのだと思われる。そのくらい、苛酷な時間であった。
 
 
●3.パンゾル
 
 無事、船に乗り込み、五重苦のひとつであった、「青の洞窟で泳いだ以来着替えていない水着とその上にパーカーを羽織った状態」を解消すべく、お手洗いに入って着替えを行う。その帰り道のデッキで、二人のゾルバがにこにこと話しているのに遭遇する。
 一人はやたら大柄で髪の毛もいい感じにぼうぼうの、いかにも野蛮な男。もう一人は一般サイズの男。野蛮なほうは、その大きな顔のさらに2.5倍ほどもある丸いパンを両手に持ってむしゃむしゃ食べている。彼はそれを誰彼かまわずちぎって渡しているようで、私にも満面の笑顔でちぎって渡してきた。隣の男を見ると、彼もむしゃむしゃと食べている。
 
 「僕の家族が作ってくれたんだ。おいしいよー」
 
 遠慮なくいただくと、本当においしかった。外側はぱりっぱりで固く、内側はほわほわとしている。しかしどっしりとした重みもあって、なんだか大地の味がする。そんなパンだった。
 
 私は、おもしろいゾルバを発見したと嬉しくなり、すぐに、客室内にいる夫を呼びに行く。
 
 パンゾルバはもちろん、当然のごとく、夫にもパンをちぎって渡す。
 
 「ここで何をしているの?」
 「俺たちは船のクルーでな、やることないからここでしゃべってるだけだよ」
 「クルーって何するの?」
 「俺は担当はメカニックだよ」
 
 なるほど、メカニックだと、想像できることとしたら、出発前の点検と、運転中はトラブルの際の修理、とそんなところか。だから、運転中は暇なのかな。そんなことを日本語で夫と笑って話した。
 
 「でもなぁ、俺はもうすぐ引退なんだ。来年だ。そしたら退職金もらって、家族と住むんだ」
 
 彼の顔はほんとうに嬉しそうだった。同時に私は村上春樹の「遠い太鼓」に登場したギリシャ人、ヴァンゲリスを思い出した。
 
 「ヴァンゲリス、貧乏。でもみんな元気」
 「なあ、ハルキ。あと六ヶ月だよ」と彼はウインクしながら言う。「あと六ヶ月で年金がおりるんだよ」年金のことを本当に楽しみにしているのだ。
 
 など数々の名言、名シーンを残した、あのフラットの管理人である。
 
 と、思い出したところで、このパンゾルバはいったい何歳なんだ?と思い至る。春樹のヴァンゲリスは少なくとも年金をもらえるということで私の中では60歳前後である。
 
 「引退かぁー、いいなぁ!ところであなたは何歳なの?」
 「43さ」
 
 43歳で引退!
 なんと素敵な人生!
 ここにギリシャ経済破綻とセックス回数世界一の根幹を見た気がした。きっと(これは推測でしかないが)ギリシャでは、43歳で退職とは、めずらしいことではないのではないか。後日、というかこの旅行記を書きながら、気になって調べてみた(いずれも出典はOECD2006−2011年)。
 
 「実効リタイアメント年齢」制度上の定年ではなく、国民が実質的に労働市場から脱落する年齢
  日本   69.3歳
  ギリシャ 61.8歳
  
  結論:日本は確かに働かなくなる年齢が高いけれど、ギリシャもさほど低くもなかった。
  
  
  ついでに、もうひとつ見つけた情報。
  
 「年金がそれまでの収入の何%まで補うか?」
  日本   34.5%
  ギリシャ 95.7%
  
  結論:驚愕の事実。それは早めに引退したくもなる。
  
  
 それで、話は戻って、パンゾルバである。
 
 「君たちも一緒に来るかい?」
 
 連れて行かれたのはフェリーの操縦室である。大きな木製のハンドルを使って船長が操縦している。他にも2人ほど、クルーが座っている。
 
 「ヘイ!こいつら、今、デッキで出会ったんだ。よろしくな!」
 
 パンゾルバはいたって陽気である。しかし船長や他のクルーたちはさほど私たちを歓迎していないようでもある(少なくともパンゾルバほどは歓迎していない)。私たちも極力陽気なテンションで話しかけ、さらに操縦室に初めて入ったことに驚きの色を見せる(実際に初めてだったので嬉しかった)。パンゾルバはマイペースに続ける。
 
 「操縦してみなよ」
 
 「え?いいの?だって、練習とかじゃなく、ほんとにお客さん、乗ってるんだけど・・・」
 
 「だいじょうぶだよ!」
 
 船長にも念のため「だいじょうぶなんでしょうか」ときいてみたが、船長も「イッツオーケイ」とクールに交わす。
 
 私なんかが操縦してもだいじょうぶなのかという不安と、まあでも大海原の上なわけだから舵取りしてもしなくてもそんな変わらないでしょというなめきった考えとが入り混じりながら、ハンドルの前の椅子に座る。ハンドルは重く、船も重かった。少し左右に動かすだけでも大きく船の向きが変わるのがわかる。次に、夫も同様に重々しい手つきで舵をとってみる。
 
 1分ほどずつの舵取りを終えて、世間話をしてから、船の客室に戻る。
 
 実際はあまりに疲れたため、客室の長椅子でうとうととしていた。目が覚めると、私たちの後ろには、何食わぬ顔をして、おそらく私たちに気づきもせず、例のパンゾルバが私たちと背中あわせで座っていた。そして、時折、人々がそばを通るとにっこりと話しかけていた。油を売るとはまさにこういうことである。おそらく、であるが、ものすごおおおく、暇なのであろう。
 
 うとうとしているところ、波がものすごいのと、それに揺られて海底の岩?にぶつかる感じとで、また苛酷なシチュエーションではあった。けれども、みんながデッキに出て騒ぎはじめたので、何かと思って私たちもデッキに向かうと、この紺色の大海原の上から見る夕陽が、なんとも雄大で、荒々しく、真っ赤で美しいのであった。ギリシャに来てからはほとんど毎日、夕陽を見ている。しかし、このときの夕陽は、ミコノスの洒落た海岸レストランから見る夕陽とも違うし、ケファロニアの穏やかな砂浜で見る夕陽とも違っていた。なにか、自然の大きさや強さをじかに感じる、別の美しさを湛えた体験であった。
 
 
 無事、ケファロニア島の港に着いたのは夜も遅く、ホテルのあるペタニ・ベイに戻るまでは約1時間かかる。したがって、ペタニ・ベイに帰るまでの間にあるアルゴストリという中心街に立ち寄って夕飯を食べることにした。正直、ここでは選んだレストランも東京にありそうなものであったし、野蛮な島での苛酷な体験により多大な疲労状態にあったため、ほとんどの会話や人物も印象に残っていない。しかし、唯一印象的であったこと、それはアルゴストリの広場では、夜24時を回っても、大勢の子どもたちが(それは本当に大勢としかいいようがないほど大勢だった)、野球場で見られるナイター試合のライトのようなまぶしい光のもとで、めいっぱい遊んでいることだった。自転車にのったり、一輪車にのったり、サッカーをしたり、駆け回っていたり。そもそもこの日は平日真っ只中である。仮に夏休み中だとして翌日学校がないとしても、日本の感覚からしたらいくらなんでも夜遅すぎる。
 なんたる。
 タバコがどこでも吸える点といい、こういった無邪気な育児方針といい、なんだかギリシャっていうのは、日本の昭和くらいの時代感覚がする。そしてそのマイペースさがとってもいとおしい。
 
 
 

ギリシャ・オランダ夏旅行(06)

(06) 青の洞窟、アンチサモス・ビーチ、フィスカルドの街

2013年9月2日 月曜日

 
●1. バランス
 
 翌朝はペタニ・ベイ・ホテルを早々に出て、「青の洞窟」へ向かった。ほんとうの名前はメリッサニ洞窟。
 
 洞窟に入って進んでいくと、すぐにまぶしいほどに光る青が洞窟の穴から目に入ってくる。光る青のそばままでいくと、その正体は、洞窟内の湖で、そこは洞窟なんだけれど天井がなくなって空に筒抜けになっている。つまり、太陽の光が洞窟内の湖に入り込んできているという、極めて珍しく極めて美しい色の世界だった。
 この青は、ミコノスでは見たことのないような、鮮やかな絵の具のようなターコイズ・ブルーだった。
 
 小さな10人乗りほどのボートに乗って、一台のボートにつき一名のゾルバが、手こぎで湖の中を一周してくれる。ゆっくりと一周して、洞窟内にいられるのは10分か15分ほどだろうか。
 帰り際もまだその美しさは名残惜しく、洞窟の入り口に向かう道で何度も振り返っては光る青を目に焼き付けた。
 
 次はペタニ・ベイ・ホテルの女将が丸印をつけて「Pool」とメモを書いてくれたビーチへ向かう。名前はアンチサモス・ビーチ。なにやら、プールのように波がおだやかで水が透明だということで、女将いわく「Pool」ということだった。
 
 ビーチへの道のりでは、何度か山羊を見かけた。首輪をつけているので飼い山羊なのだろう。のどかなのだ。
 
 アンチサモス・ビーチ。
 ここの海は、ほんとうに澄んでいて「青色」だった。青の洞窟と同様に、ミコノスでは見たことのない、透明な「青」。ミコノスの海は、美しく澄んでいるけれど「透き通った薄い水色」であった。
 
 しかもこのケファロニアの海では、砂浜から海を見ると、浅瀬から沖に向かう途中で、浅瀬側と沖側にくっきりと二分されているように見える。つまり、色が二色で、浅瀬側と沖側で異なる色なのだ。浅瀬はほとんど透明に近い薄いエメラルド・ブルー、沖は濃い青。二色の境界のところで水にもぐって見ると、驚くことに、水の中でも同様に、水の色が二分され、極端に違う2つの色に見えた。
 
 私たちはこの初体験におおはしゃぎした。何度もその色の区切りのところでもぐっていた。
 
 その興奮もひと段落すると、あとはゴミ一つない、きれいで過ごしやすいビーチで、モヒートを飲みながらサンベッドに寝っ転がってお互い思い思いに本を読んだり眠ったりして過ごした。このビーチは、洗い場やトイレなどもとてもきれいで、ほんとうに過ごしやすかった。
 時間も何も気にせず、ゆるやかで穏やかな至福のひととき。
 
 時はあっという間に過ぎて、空は薄いピンク色に。
 もうひとつ行きたかった洞窟、ドロガラディ洞窟に着いたときには、もう洞窟はしまっていて、入れなかった。それでも全然よかった。観光をするよりも、時間を気にせず気ままに動く、このことのほうが大事だった。
 
 ふたりとも落ち込むことなく、次なる目的地、フィスカルドという街へとドライブする。車中の山道から見える薄いピンクとグレーと水色が混じったような空、それと溶け合う海。ケファロニアの持っている自律性がなせる業というようなすばらしい静けさと景色のバランス。ドライブの音楽は、DJ HIKARUのSUNSET MILESTONE。この少々南国性を感じさせるゆったりとしたグルーブのソウル、ハウスといったクラブ・ミュージックは、この幸福な日のひとつひとつの瞬間をより幸福にさせると同時に、この幸福な日の象徴のようなものになった。日本に帰ってきてからもこのアルバムを聴くとケファロニアを思い出す、そのくらい密な記憶となった。
 
 フィスカルドに着いたのは、陽が落ちた後だった。
 フィスカルドは、島の北側に位置する、自家用クルーザーやプライベートヨットが集まる、品の良い港町。私もすぐにこの街が好きになったが、夫はもっと気に入った様子だった。しきりに
 「俺、ここ好きじゃー」
 を連発している。
 
 青、オレンジ、黄色、赤、緑。カラフルな小型の船たちが夜の港を彩る。
 その港のそばをふらふらしてから、港に面したレストラン(EZTIATOPIOと看板にはあった)で、シーフード・グリル・プレートとほうれん草のようなものの炒め物を食べる。しかし、それより何より、ここの赤ワインとパンが美味しかった。ワインのラベルには「Gentilini」とある。おそらくワイナリーの名前だ。これはケファロニア当地のワインとのことだった。深く、しかしさっぱりとしていて、異常に飲みやすい。香りも癖がなく、なんとなく土の香りがする。そんなようなどっしりとした、しかし重すぎない、ワインだった。
 
 「ワイン、これめちゃ美味しいね」
 
 そんな他愛ない会話を交わしていると、隣のテーブルにいつの間にかバイオリニストが現れていて、サン・サーンスの白鳥を弾き始めた。
 
 「この曲、結婚式の教会に新郎入場するときに使った曲じゃん!」
 
 そんな感じでまわりで盛り上がる私たち。バイオリニスト氏の演奏は、もちろん、上手には上手だが、なんとなく優雅さがないぶん一生懸命感が伝わる、そんな演奏だった。バイオリニストの男性は何フレーズかごとに各テーブルをまわる。お店の気の利いた演出なのか、個人的に自由にやっているだけなのか、よくわからない。とにかく、完璧な演奏ではないという点がまた場におかしみを与えて、素敵な微笑ましい空間になっていた。
 
 この日は事件らしい事件は起こらない平和で美しい日だった。
 
 ふたりで何を話したのか、もうあまり覚えていない。
 それでも話はいつもどおり弾んだらしく、帰り時間は遅くなり、運転手である夫は眠さに必死に耐えていた。眠さに耐えるのに、いつもはしりとりやマジカルバナナなどで遊ぶのだが、私の方も眠気に勝てず、参戦してあげることができなかった。
 うとうとしながら思った、いつかこのケファロニア島のように、自律しバランスのとれた幸福と余裕の中に生きることができる優雅な人間になれるのだろうか、と。