Modern Life Is Rubbish

美しいもの。本、映画、音楽、そしてそのほか雑文

レイモンド・チャンドラー「ロング・グッドバイ」(村上春樹 訳)

レイモンド・チャンドラーの「ロング・グッドバイ」。
今年、日本でドラマ化もされたが、なんと書かれたのは1953年と約60年も前。
私が読んだのは、もちろん村上春樹訳。


■あらすじと設定
私立探偵のフィリップ・マーロウは、億万長者の娘シルヴィアの夫テリー・レノックスと知り合う。あり余る富に囲まれていながら、男はどこか暗い蔭を宿していた。何度か会って杯を重ねるうち、互いに友情を覚え始めた2人。しかし、やがてレノックスは妻殺しの容疑をかけられ自殺を遂げてしまう。が、その裏には悲しくも奥深い真相が隠されていた。


■感想

・マーロウという人間と、男同士の絶妙な距離感の関係性について

レノックスの自殺の真相まで、話の骨格がしっかりしている。

しかし、主人公のマーロウの心理描写がないので、淡々と話が進む感じがあり、心理描写を楽しむ読者には物足りないかもしれない。
かくいう私も夏目漱石のくどいまでの自意識描写を好んだりする読者なので、「ロング・グッドバイ」については寝る間も惜しんで没頭して読むまではいかなかったように思う。

心理描写がないためかどうかわからないけれど、私にとって、マーロウは、自分の「範囲」がわかった人間、信念はあるがある種の諦念を持った人間のように映った。
つまり、自分はこういう風だ。こういう風にしか生きられないからこう生きる。「こうなりたい」という願望はとうの昔になくなったよ。というような。
これは「大人になる」ことの一つの形だと思う。
このようになりたいかといわれれば、なりたいようななりたくないような、というのが正直なところ。

淡々と進む「大人」仕様の安定感のあるストーリにおいて、唯一「子ども」っぽい不安定だが美しい光を感じられるのが、テリー・レノックスの存在。
というか、私としては、レノックスの存在というよりも、マーロウとレノックスの関係性が、この小説に稀有な光を与えていると思う。
遠いようで近い。
近いようで遠い。
微妙なそして絶妙な距離感の関係性。
友情と呼ぶには不足している、しかし、単なる知人と呼ぶには親近感が強い、そんな関係。

本文の115ページで、レノックスとの関係性がマーロウによりこう語られる。

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彼は長い船旅で知り合った誰かに似ている。とても親しくなるのだが、実際には相手のことを何ひとつ知らない。

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この程度の距離感の相手なのに、なぜかマーロウはさまざまの不利益を被ってでも彼の無罪を確かめようとひたすら行動する。

ここに私は、マーロウの人としての信念のようなものと、2人の関係のはかない光のような美しさを感じる。



・文章のうまさについて

特別に長い(長すぎる)村上春樹の訳者あとがきにも記述されるように、チャンドラーは文章がすごくうまいと思った。
そのうまい文章とは、たとえばこんな具合である。


本文345ページ

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永遠に続くのではないかと思われる朝だった。ぐったりとして何をする気もおきず、ただ気怠く時を過ごしていた。一刻一刻はロケットが失速するときのような、気のないむなしい音とともに、ただ虚空の中に消えていった。

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本文517ページ

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電話を切った。それからドラッグストアに行って、チキンサラダ・サンドイッチを食べ、コーヒーを飲んだ。コーヒーは幾度ものお勤めで疲弊気味だったし、サンドイッチには細かくちぎられた古いシャツのような深い味わいがあった。トーストされ、二本の楊枝でとめられ、レタスがわきからはみ出していれば、アメリカ人はどんなものだって文句を言わずに食べる。そのレタスがほどよくしなびていれば、もう言うことはない。

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そのうまさの解説については、春樹の長すぎる、そして愛情あふれすぎる、訳者あとがきにお任せします。



村上春樹への影響について

最後に、村上春樹への影響について、簡単に。
文体もさることながら、キズキや鼠を髣髴とさせるテリー・レノックス的存在と、わりとニュートラルな立場から語り物語を進める主人公、というこの骨組みは、明らかにチャンドラーからの影響が大きいと思う。
ただし、チャンドラーの場合はこの主人公の心理描写が徹底して描かれないのに対し、春樹の主人公は結構雄弁であり、自分の孤独や不可思議な状況(いきなり頬に大きなあざができていたりだとか)について言葉巧みに説明や表現をしてくれる。このことは、春樹小説が大勢の日本人読者を共感させ多くのハルキストを生み出した1つの要素だと思う。