Modern Life Is Rubbish

美しいもの。本、映画、音楽、そしてそのほか雑文

木皿泉「昨夜のカレー、明日のパン」


敬愛する木皿泉さんの「昨夜のカレー、明日のパン」。

ドラマと小説、両方観終えたので感想。


■あらすじと設定
テツコは義父と2人で暮らしている。
義父のことは「ギフ」と呼んでいる。
夫の一樹が死んで7年(小説では9年という設定)になるが、いまだにギフと暮らしているのである。
テツコに恋人はいるが、再婚する気は今のところない。
テツコとギフをとりまく人たちに、日常的な事件がいくつか起こり、そのなかでテツコとギフは変わっていくのだろうか、あるいは変わっていかないのだろうか。


■感想
木皿泉のどのドラマにも共通する世界観、それは、暖かさ、アナログ感。
それから、「いま目の前にある世界を大事にして、この世界で生きてゆかなければならない」というメッセージ。
丁寧な生活、そして「無駄のある」生活。

こういった内容は、今回も作品の根底に流れている。

この「いま目の前にある世界を大事にして、この世界で生きてゆかなければならない」というメッセージは、ジム・ジャームッシュの「パーマネント・バケーション」に描かれた、「1つの場所にとどまっていられない」「ここではないどこかへ移動しつづける」という、現代の焦燥感や渇望と、真逆の位置にあると思う。
パーマネント・バケーション」に共感してしまう自分だからこそ、この木皿泉のメッセージを暖かく感じ、納得し、大事に心にしまって生きていきたいと感じるのである。

今回のドラマも、観ていて、観進めていくのがもったいなくなるような作品だった。
これは面白い小説を読んでいて、文章がよすぎて、展開もおもしろすぎて、読み進めていくと「あー、あとこれだけしかないのか」と残りページ数が少なくなっていくのを残念に思う、それと同じ感覚である。

1回1回の話には

「みんな前に進めっていうけれど、とどまることってそんなにいけないことなのかな?」

とか

「誰かと生死を共にすること、それは迷惑をかけたりかけられたりしながら生きていくってこと」

とか

「他人から見たらみじめに見えるときでも、夢のようにきらきら輝く時間がある」(全く関係ないが、これはBLURの「BEST DAYS」という曲の歌詞で表現されている価値観とほとんど同じである)

とかいったテーマが盛り込まれており(こういったことはほとんどが登場人物にセリフとして言わせているのが木皿泉の手法だ)、料理や家、小道具の描写はいつもどおり丁寧にこだわられている。

特に、主役の仲里依紗さんが家着として着ていたTシャツは、毎回凝っていて可愛かった。
「ロリータ」や「巨匠とマルガリータ」、「オズの魔法使い」「どろんこハリー」、とにかくほとんどが文学が背景にあって、おしゃれだった。

ドラマを作るって、このこだわりを目に見える世界として作れるわけで、これは楽しいだろうなあと心底思わされる。

それから亡くなった一樹を思い続ける、仲里依紗さんの演技もよかった。大事な存在の不在に対して、人はどういう表情をするのか、それがよく表現できていて、泣けた。

わたしは、過去の作品、「野ブタ。をプロデュース」と「すいか」で、木皿泉という脚本家に度肝を抜かれた。
日本のドラマの脚本家という意味では、初めてマニアレベルで好きになって関連本やDVDを購入した。
しかし、今回の「昨夜のカレー」は、「野ブタ。」や「すいか」ほど、心をきらきらさせられることはなかった。
なので、たぶんDVDは買わないだろう。
もちろん、いつもの木皿節は健在なのだが、どうしてだろうか。

ひとつは、ストーリーに大きなゴール(進むべき目標)や、軸、そして謎がないこと。
「すいか」小林聡美小泉今日子は友人関係にありながら、真逆の価値観(「この世界で生きてゆく」と、「ここではないどこかへ」)を体現する存在(軸)であった。
野ブタ。」では、野ブタ。を「プロデュースする」という大きなゴールと、「陰湿ないじめをしているのはだれか?」という謎があった。今回の作品「昨夜のカレー」で、全編を貫くストーリー上のゴールは、あるとすれば、おそらく「テツコは死んだ夫、一樹を手放すことができるのか」ということかもしれない。しかしこのゴールが題材としてあまりに重いので、なんとなくよくある話(いろいろな作家がよく題材にする話)といった感じで逆に陳腐になってしまった気がする。

2つ目は、きらきらした若さのようなまぶしさのようなそういったものがあまり感じられなかったこと。
これは設定の問題もあるし、映像的にも、ブラウンの印象が強かった。
野ブタ。」は、学園ものなのでそもそも青春、若さゆえの悩みやテーマを取り扱っていたし、映像的にもセピアがかった夕焼けに制服、とまぶしさがあった。
「すいか」は学園ものではないが、映像的にみずみずしい緑色の印象があり、主役の2人以外の俳優さん(ともさかりえ市川実日子)がおしゃれオーラ全開だったのもあって、きらきらしていた。

3つ目は、俳優さんの演技や存在感。
主役の仲里依紗さんや、義父役の鹿賀丈史さん、彼氏役の溝端淳平さんらは、キャラクターを愛されるべき存在にしていて、とてもよかったと思う。
演技のことはわからないので、私個人の感覚の問題になるが、「ムムム」役のミムラさんと、一樹役の星野源さんの演技が苦手だった。
特にミムラさんの演技は大袈裟で、「笑えなくなったCA」という闇を抱えた女性という設定だったが、共感できなかった。「すいか」でいう、ともさかりえ的な立ち位置と思われるが、ともさかりえの役には魅力があり共感できた。

4つ目は、音楽。
これも、ドラマの中で使われる阿南亮子さんの作られた音楽は、とても美しく切なく、木皿泉ワールドにぴったりだった。
ドラマのよさの、5分の1くらいはこの音楽のおかげなのではと思われるほどだった。
問題は、主題歌、というかエンディングの曲。
プリンセス・プリンセスの「M」なのだ。
これは、古すぎるし、ベタすぎたと思う。
わたしとしては、くるりの「飴色の部屋」あたりを使ってほしかった。
でもそれだと「ジョゼと虎と魚たち」と同じになってしまうし、実際は使えないだろうなあ。

自分の勉強のためにも、過去の作品に比べて、いまいちだった点をあげてみたが、しかし、冒頭で書いたとおり、すごく好きなドラマで、観進めるのがもったいないくらいの作品だったことは間違いない。
これからもしばらくは家事や育児をしながら、このドラマの録画を流して、世界観に浸ったりする自分はいるだろう。

最後に、小説の感想を少し。
この方々は、やはり脚本家である、と思った。
小説を最初に書いて(小説家としては処女作)、それをドラマ化したようだが、やはり小説よりもドラマのほうが、数十倍よかった。木皿泉の世界観、これを表現するのは文章よりも、音楽と映像のほうが得意だということなのだろう。
小説は2014年本屋大賞第2位とのことだが、文章をかみしめるだけでおかずになるような、文章の深みや香りといったものはなく、文学性は感じられなかった。
しかしセリフには輝く言葉がちりばめられている。今までの木皿泉のドラマと同様に。
ドラマ化にあたっては、ほとんど省かれたと思われる「夕子」の章が、小説としては一番感情移入して読めた。
この章では、「どんどん無駄がなくなっている社会に取り残されていく感じ、しかしその社会で生きていかなければいけないということ」が会社の急激な変化を通じて描かれる。
それから、「見た目は立派に見えるが、どことなくみすぼらしい感じを与える人たち」を、夕子の目を通して、のちに夫となる寺山連太郎と対比して、描かれる。例えばそれはずり落ちそうなズボンをもち上げるしぐさだったり、自慢しているときの口もとであったり、財布を覗き込む首の角度だったり、そういったことである。その「みすぼらしさ」が連太郎にはないということで、彼と結婚する過程が描かれている。この「みすぼらしさ」はすごく共感した。これは要は「人としてのいじきたなさ」「周囲の世界にあわせようとする焦りから自分が自分でなくなっていること」といったようなものである気がする。そういったものが一切ない人間というのは、現実世界にはいないのかもしれない。いや、わたしが知っている人で一人くらいはいたかもしれない。いずれにせよ、自分はそういった「みすぼらしさ」からはほとんど無縁であるような人間でありたいものである。