Modern Life Is Rubbish

美しいもの。本、映画、音楽、そしてそのほか雑文

デーモンアルバーンとヘルマンヘッセ

私が大好きなBlurというバンドのフロントマン、デーモンアルバーンはヘルマンヘッセが好きで影響を受けたことを公言している。
私自身が読んだヘッセの作品は「デミアン」「シッダールタ」「荒野のおおかみ」「メルヒェン(短編集)」の4作。
このうち「メルヒェン(短編集)」を除く3作について、「デーモンアルバーンとヘルマンヘッセ」の関連性ついて印象に残っていることを簡単に記録しておこうと思う。

*「メルヒェン(短編集)」は収録されている「別な星の奇妙なたより」という短編のタイトルがそのままBlurの曲タイトルに採用にされている、ということ以外にはデーモンとヘッセという観点での印象はない。

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*若き日のデーモンです

デミアン

まず、「デミアン」という小説。
シンクレールという名の主人公の少年が、少しだけ年上のデミアンという少年と友人関係になり、デミアンに憧れたり導かれたりしながら、真の自己を見出そうと追及しながら成長していく物語。

なのだが、このデミアンという少年が、到底子供とは思えない超越した思想(世界の善悪や聖俗などの明暗両面に目を向けなければいけない、人類が生まれ変わるための世界の崩壊など)と自信と存在感をもっていて、不思議な魅力を放ちまくり。
主人公シンクレールも、10代を過ごす間にデミアンと離れたり再会したりを繰り返しながら、どこかしらデミアンを崇め、またデミアンに執着してしまっている様子がみられる。

このデミアンに、なんとなく自分の中で既に超越した自信満々な存在であったデーモンアルバーンが重なってしまった(そんなマニアックな読み方するのは私だけかもしれないが)。
しかも「デミアン」の名は「Demon(デーモン。悪霊に取り憑かれたもの)」が由来しているとか、あるいは「Demon」の別バージョンである、「Demon」が語源である、とかいう情報もある。
デーモンアルバーンの名はスペルは「Damon」であり、もちろん決して「Demon」ではないが、それにしても、デミアンとデーモン、名前の語感は似ている。またデーモンアルバーンはこの名前のせい(Demonに似ている)で幼い頃からかわれていたというエピソードもある。
そんな諸々が重なって、もしかしたらデーモン自身もデミアンを読んだときデミアンをどことなく自分に重ねたりしたのではないかと思ったり思わなかったり。

あと、Blurのバンド活動休止中に、メンバーのアレックスがBlurについての本を書いた。
その本で、アレックスはデーモンのことを
「彼は演劇が好きで、ヘルマンヘッセが好きだった。
 スペインを愛し、サンダルを履き、月の満ち欠けを注意深く見守っていた。
 彼は、母さんは奇術ができると言った」
と書いている。
ここの記述自体も、ヘッセの「デミアン」とすごく印象がかぶるのだ。
たぶん「デミアン」にはサンダルを履くとかいう記述はなかったはずだ。ただ「デミアン」ではデミアンの母も途中から不思議な役割として登場する。そのあたりが印象かぶりの理由なのだろうか。

「シッダールタ」と「荒野のおおかみ

そしてこの2作。この2作は書かれた時期も近く、テーマが似ている。
デーモンは1993年のインタビューで、ヘッセの作品はすべて好きだが、特にキーとなる作品はこの2作「シッダールタ」と「荒野のおおかみ」と答えている。
この2作のテーマは私が思うに
「常に求める人、渇く人」
「どうやってもこの俗世では満足できない人間(作品中では『1つ次元を多くもっている人間』とも表現されている)」
が、この世の俗世的価値観に絶望し、時に自殺も考えながらも、この世でどう生きていくべきか、ということである。
そしてそこにヘッセは結論めいた答えを用意しており、それはものすごく簡単にいってしまうと
「一瞬一瞬この世界は完全であるととらえ目の前の世界を愛すること」
「自分を真剣にとらえすぎず、ユーモアをもって笑って生きること(自殺という選択はしないこと)」
という結論(答え)である。特に1つ目の答えは仏教への傾倒を感じる。

こう簡単に書いてしまうと身も蓋もないのだが、こうした「結論」を持ってしまっているのがヘッセの作風の特徴であるとも私個人的には思う。
世に言う小説のほとんどは、「結末」はあるが「結論」は明確には書かれていないと思う。「結論」は読者の「解釈」にゆだねられており、読者は「結局こういう意味だったのかな」などとその「解釈」を楽しんだりする。
しかしヘッセの小説には「人生は●●である、しかし△△という風に生きるべきである」というような「結論」が明確に書かれている。と、私は思う。その結論を書きたいがためのストーリーという感じがあり、あまり登場人物にリアリティがない。ある意味、童話絵本のような、そして思想・哲学系論文のような、不思議な手触りがある。読んでいる間、小説を読んで物語に感情移入している、という感覚はあまりない。

話を戻して、デーモンとヘッセの話である。
デーモンも俗物社会への絶望というベースがありつつも、それでもこの現実社会で地に足をつけて楽しんで生きていくしかないという強さを体現した生き方をしているような気がして、非常にヘッセ作品の結論と符合するな、と勝手に私は思っている。

ヘッセの作品の主人公が自殺を考えてたり、俗世的・享楽的価値観(清潔に花を飾るような市民的秩序的生活、意味がない相手にも愛想よく振舞うこと、功利主義、賢く振舞う虚栄、など)に嫌気がさしたりしているのだが、そうした描写にデーモンもいちいち共感したのかな、といちいち胸をいっぱいにしながら私はこの2作を読んだ。

最後に。「シッダールタ」というタイトルにも表れているが、ヘッセのこの2作には東洋思想の受容、傾倒がみられる。ヘッセはキリスト教の神学校に入れられたが逃げ出しその後作家になりこうした作品を書いた。デーモンもキリスト教圏で育ちながらも多文化を受容しよう、あるいは多文化を知りたいというスタイルや音楽性がみられ、このあたりもヘッセと符合する。デーモンはヘッセのことを「彼はいつも精神性や超俗性を定義しようと試みていたが、同時にあらゆる性や教義から離れてもいた。彼はただ彼自身としてそこにいた。彼は初めての汎神論者の1人だよ」と語っている。