Modern Life Is Rubbish

美しいもの。本、映画、音楽、そしてそのほか雑文

初秋のセンチメンタリズム

昨日から、風は確かに秋である。
秋に変わっている。
あきらかに。


これまでより冷たい風が肌に心地よく、空も心なしか高く感じる。
真夏の異様な暑さの中にいるよりも、空気が澄んでいる感じがする。
そんなポジティブな感覚とは裏腹に、
何やらさみしくせつないきもちも同時に感じる。


そう、秋への変わりめはいつだって、急なのだ。
突然なのだ。
「徐々に」というよりは、「がらっと」「あからさまに」「がくっと」変わる。
ちょっと、受けるこちらが「ええええーーー!?」と思うほどに。
それほどにいきなりな感じがある。


それはまるで、
てのひらを返したような恋人や親友の態度の変化だったり、
突然親に話をしなくなった思春期の子どもだったり、
ある日急に肌にできているシワやシミだったり、
そういった人間のあれこれの変化のようである。


ほとんどの物事は、実際には「徐々に」進行している。
しかし、わたしたちの目は、それらの物事のゆっくりとした進行をつぶさに観察していない。
だから、「急な」変化として、感じることが多い。


夏の終わり。
このせつなさは、きっと誰にとっても、一般的なせつなさと個人的なせつなさとが混じったものになっていることだろう。
わたしにとっての個人的なせつなさは、夏が、息子と過ごす日々のひとつの象徴であることから来ている。
と、思われる。
息子はすでに数週間も前にアメリカに戻ったのだけれど、
彼の妹にあたるわたしの娘がわたしの傍らで赤ん坊らしく幸せそうに笑うたびに、彼を思う気持ちが増幅される。
楽しく過ごしているだろうか。元気でいるだろうか。笑っているだろうか。


夏の終わり、つまり秋のはじまりの、この涼しい感傷に、
いろいろな日々の些細な事柄が塵として積もって、
わたしの孤独感とセンチメンタリズムは、いい感じに加速する。

初秋のセンチメンタリズムを加速させる事柄たちは、以下。

・「エリック・サティとその時代展」に行った。
 ピアノを習っていた高校生までは、サティをピアノで弾く機会もなかった。
 たぶん「ザ・クラシック」というよりはやや不思議な音楽だし、
 技巧が必要というような曲でもないから、ピアノの先生もとりあげなかったのだろう。
 大学生になって、ジムノペディや「風変わりな美女」シリーズを聴いて、ドビュッシーのような、しかしドビュッシーよりさらに奇妙なこの旋律が、好きになった。
 それから、近年、Blurのデーモンもサティに影響を受けていることを知り、
 デーモンの音楽には確かにサティっぽさがあることを発見。
 さらにサティの音楽を聴き込むことになる。
 
 展示会では、サティの曲が流れる中、
 サティの風変わりキャラを感じる話、
 たとえばそれは
 7着のベルベット・スーツを購入してそれを7年間にわたって着続けた、だとか、
 生涯唯一の恋愛が6ヶ月しか続かなかった、だとか
 そういったエピソードに触れた。
 それから、ピカソコクトーと前衛的な舞台の仕事をしていたり、
 「スポーツと気晴らし」という新しい形の芸術作品(シャルル・マルタンの描いた風俗画集に、1曲ずつの短いピアノ曲を添えるという企画)の音楽を作っていたり、
 そういったことを知って、それらの作品にもこの展示会で触れることができた。
 サティのことを深く、というよりは、サティを含む当時の芸術シーンの空気を感じることができた。
 
 サティ展の後は、自宅でまたサティをよく聴いている。
 暗いような明るいような、
 それぞれに奇妙な題名をつけられた、美しい曲たち。
 

・息子と電話で話した。
 心なしか、テンションが低い。
 気にしても仕方がないが、気にはなる。
 たぶん何でもないか、ただ疲れているだけだろう。

 
・近頃、文学新人賞作品を読んでいる。
 いずれも、近年の受賞作品たち。
 すばる文学賞の「島と人類」、「みずうみのほうへ」、
 文藝賞の「死にたくなったら電話して」
 を読んだ。
 今は同じく文藝賞の「世界泥棒」を読んでいる。
 
 この中では圧倒的に「死にたくなったら電話して」がおもしろかった。
 ストーリーの引き込み力があった。
 「どうなるのか?」「何なのか?」といった謎ポイントがたくさんある。
 本の半分くらいまでは、日々こまぎれに読んでいたのだが、
 本の半分あたりから、続きが気になってしまい、家事育児よりも優先させて一気に読んでしまった。
 
 テーマも「こんな世界、生きる価値あるのか」「2人の人物の閉ざされた世界」など
 深いけれど、誰でも入り込める、そんなテーマだ。
 
 ただ、そんなテーマだけに、読後感はあまりよくない。
 気分が暗くなる。
 それから、この小説に、いわゆる純文学に求められる「芸術性」はほとんど感じられない。
 文体のみに絞ると、魅力はあまりない。
 
 それでも、「ストーリー」「キャラクター」「テーマ」において
 優れているのはすごく感じた。
 純文学の小説というよりは、おもしろいマンガや映画脚本のような、そんな作品だったと思う。
 とにかく、「おもしろく読める」ってことは、やっぱりとても重要だし、すごいことなんだなあ。


・この「文学賞受賞作品を読む」ことも、目的をもって「やるべきこと」としてやっているきらいがある。
 すごく好きな芸術作品に触れているわけではない。
 だから最近は、本当のフリータイムがとれていない。
 何の目的もなくただ好きなもの、好きな音楽、好きなバンドのライブ動画、好きな映画、好きな小説、そういったものを観たり聴いたりする時間がとれていない。
 こうなってくると、自分の心の栄養がなくなってくる。
 それで暗くなって、心が殺伐としたりセンチメンタルに浸ったり、する。
 さあ、今週はどこかで1日、家でまったり映画1本くらい観よう。あるいは若かりしBlurのライブ動画を観よう。