Modern Life Is Rubbish

美しいもの。本、映画、音楽、そしてそのほか雑文

なぜ人は

息子の誕生日を一緒に祝うため、アメリカのオハイオ州に来ている。

オハイオの冬は東京などでは味わえないほど寒い。
毎日が氷点下の気温で、たとえば昨日車にのったときに車内に表示された外気の気温は、華氏7度。摂氏で言うとマイナス13度ほどである。
一度積もった雪は、なかなか融けない。
雪降りの日でなくとも、だいたいが雪景色となっている。
そういうわけで、ここでの冬の暮らしは、毎日、室内にいるか、車で移動する。
外を長時間歩く人などまず見かけない。
外を10分ほど歩けば、顔の肌が痛くなってくるのだ。
それはひりひりというのとも違うし、きんきんというのとも違う。
日本では体験しないような、肌の奥まで届くような、それでいて麻酔をされたように少し無感覚な、鈍いような、表面的なような、両面的な、痛み。
道路だって、雪が積もっていては危ないから、融氷雪の塩をまく除雪車がいちいち早朝に稼動する必要がしょっちゅうある。


こういうレベルの寒さの場所に滞在していると

「なぜ人は、こんなところにわざわざ住むのだろう?」

という疑問が頭に湧いてこざるをえない。


ほんとうに、「なぜ?」


それから、わたしは今、授乳中の赤ちゃんの母親でもあるわけだが、その赤ちゃんを日本に残る夫や母に任させてもらい、一人でこちらに来させてもらっている。
この特殊な状況と、それからオハイオでの息子とのほとんど孤独で閉鎖的かつ楽園的な滞在の日々を送るうちに、心ががらんどうになっていくこの感じ。
このあたりがあいまって

「なぜ人は、ここまでして『自分の子ども』を欲しいと願うのだろう?」

という疑問も出てくる。

誤解のないように書いておくけれど、私には現在2人の子どもがおり、授かった2人は、私の一番の宝物である。

そんな自分も含めて、また、子どもがいない人でも、人は一定の年齢になると「自分の子どもが欲しい」と思う人が多くいると思われる。
この心理、この感情っていったい何なのだろう。

私のような特殊な状況でなくとも、一般的に言って、
自分の子どもができると、大変なことがたくさん増える。
自分の時間も少なくなるし、子どものためのお金だって必要だ。

なんというか、プラスも大きいけれど、単純な効率という面でいえばマイナスだってあるのだ。


「生物学的に、本能的に、生物は子孫を残すものだから」
とか
「人は孤独では生きていけないから」
とか
「面倒事のマイナスより大きなプラスの感情をわが子はもたらしてくれるから」
とか
「わが子を産み育てることへの好奇心があるから」
とか、
まあよく言われる次元で話せば、こんな話はすぐに終わるものだろうし、実際どの理由も正しいのだと思う。



しかしこの疑問を捨てずにそのまま続けて考えてみると、結婚だって同じことである。
一人で生きているほうが楽なことだって多いのに、

「なぜ人は、わざわざ面倒の起きやすい『2人で生きていくこと』を望むのだろう?」

ということである。



自分一人だけの人生が満たされていれば、住む場所や結婚や子どもということに執着せずに生きていけるのかもしれない。
効率という面だけとれば、それが理想かもしれない。


それでも、自分を含め、ほとんどの人は、わざわざ面倒な場所に住み、わざわざ面倒な結婚をし、わざわざ面倒な子育てをする。
理由は何であれ、こういう「わざわざ面倒な」ことをするところに、人間らしさがあるんだろうなあと、思う。


それはたとえば、寒すぎるオハイオで、車に乗らず10分ほど歩いて息子と食べる夕飯を買いに行く、そのときに、氷点下の空気にさらされて顔の肌に感じる痛みだって、目に映る雪のようにきらきらした感情に変わってしまう、こんな幸福が凝縮された瞬間。
こういうとき、生きている、と思う。
あるいは、面倒なこともこなして乗り越えて、生きてゆける、と思う。
とても人間らしく。