Modern Life Is Rubbish

美しいもの。本、映画、音楽、そしてそのほか雑文

良きハウスワイフこそ善という幻想



きょうのBGM。
Blur漬けからちょっと離れて、久々にMixmaster MorrisのチルアウトDJ。
https://www.mixcloud.com/mixmastermorris/mixmaster-morris-nubient-big-chill-bar-london-april-2013-pt2/
このトラックリストの9番目の「bubbleman by DJ Wally」っていう曲が好きです。




さて、わたしは現在、育児休職中、である。
つまり、テンポラリーの専業主婦。
来年からは復職予定ではあるけれど。
今年は、育児と家事が「仕事」の日々。

このたび結婚して、はじめてのこの状態(自分が経済的にはお金を稼いでいない)なので
微妙に夫婦間での分担や立ち位置のバランスが変わってきている。

と、いう背景がありつつ。

思うのは
「良きハウスワイフ=善」
「子ども+良きハウスワイフ=家庭円満」
などという等式は幻想にすぎない、ということ。


まあ、「良きハウスワイフ」をがんばることにちょっと疲れてきてるんだと思います、自分。
うちの今の環境は、赤ちゃんも穏やかで夜もぐっすり寝て比較的全然手がかからないほうだし、夫も私が外出するときは文句ひとつ言わず赤ちゃんを見てくれて、それは幸せな、満たされた、ノ―ストレスな育児ライフが送れてる。
それが事実。
それでも、日によるけれど、「あー、家事育児で一日終わってしまったな」とか「気づいたらなんか、一日じゅう皿洗いしてないか?」とか、そんなふうに落ち込む日がたまにある。
使う時間の割合として自分の趣味に使える時間が増えればいいというだけでなく、なんというか目に見えない家庭の中でのパワーバランス的なものも、結婚前や出産前と変わってきている。

やっぱり、どんなに嫌な仕事、どんなにつまらない(と自分で思う)職業であっても、自分の手で社会的な仕事をしてお金を稼げるだけ稼ぐ、っていうことは、人間の自立、人間の尊厳、人間の精神衛生にとって、非常に大事なことなんだなあ、と思うわけで。
自分の家の家事育児って、金銭的価値に変換されないから。

なお、この文章は、「専業主婦批判」ではありません。
ただ、「自分は専業主婦、良きハウスワイフをがんばることには向いていない」という主旨のものです。




ハウスワイフっていうのは、いわゆる「専業主婦」。
日本語というのは恐ろしいもので、漢字の言葉にされると、正確な意味が何なのかごまかされるようなところもある。
英語でいうハウスワイフのニュアンスは、日本語WordNetとoxford dictionary(英英辞典)がしっくりきたので転載。

<日本語WordNet
housewife
a wife who manages a household while her husband earns the family income
夫が家庭の生計を稼ぐ間家事をする妻

<oxford dictionary>
housewife
A married woman whose main occupation is caring for her family, managing household affairs, and doing housework
家族の面倒を見、家庭に関する庶務をやりくりし、家事を行うことが、主な職業である、既婚女性




「夫が稼いできてくれているんだから」という良心、感謝、労いなどのポジティブな感情から
家事と子どものことをすべて妻ががんばってこなし(「やってあげて」)、夫に従順であり、夫を立てる。
それが「良きハウスワイフ」の典型像だと思われる。
日本の夫たちが、結婚や妻にそれを期待している、と妻側が勝手に思い込んでいるから、妻が勝手にそれを演じている、ということもあるだろう。
また、妻側の思い込みだけじゃなく、実際に、多くの日本の夫たちはそういったことを多かれ少なかれ、結婚や妻に期待しているのだろう。

わたしもそういうことを期待されているのかなという感覚もあったので、出産後の一時的に育児休職中という状況の中、「良きハウスワイフ」的な像をイメージしながら、今までより意識的にその像に近づくようがんばってきてみた。
まあそれでも、世の一般的な「良きハウスワイフ」には程遠い、自分勝手で気ままで趣味に時間を費やす生活を送っているとは思うけれど。
そんな気ままな生活の中でも、家事育児分担は何も言わずに以前より自分がかなり負担したり、夫は働いてくれてるんだから家でくらいゆっくりしてもらおうという気遣いをもったりと、出産前に比べるとかなり「良きハウスワイフ」的になったと思う。




けれども、はたして本当にそれが「いい女」なのか?
女性自身にとっても、男性たちにとっても、そんなの決して「いい女」ではない、と、最近再び思い始めた。




というより、
自分がどう思うか、どうなりたいか、が重要なわけだけれど。
わたしは本当にそういう女性になりたいのか?


なりたいの?


たぶん、なりたくはないです。
でも、いろいろなことを円滑に生活していくためには、「良きハウスワイフ」的な像も多少は必要。

だけどそれにとらわれすぎて、自分自身をなくしたり、謙遜しすぎて卑下に至ったり、自分の好きなことに使う時間がなくなったり、そういった状態になることは避けたい。
そんな状態は、つまんない。

つまらない。

なるべく、自分自身は、結婚前の状態と変わらないでいたい。
結婚したのだから、状況が変化することは当然。それも理解してる。
けれどやはり個として自立し、自分のためにやりたいことをやって、遊んで、楽しんで、行動的でいないと、
死んでるのと同じなんじゃないか、と思うわけです。

きっと「他人のために何かをしてあげている」という状態がよくないんだと思う。
たとえば昔ながらの典型的日本家庭の(まあ今の日本ではこんな家庭少ないかもだけれど)
「夫が稼ぎ、妻は専業主婦は夫の家での生活を含めて家のことを全部やる」形。
これはお互いに「他人のために何かをしてあげている」という状態。
もちろん、これでも大丈夫な人たち、問題ない人たち、精神的自立を保てる人たちは、沢山いるんだと思う。
でも、たぶんわたしにとってはこの形はよくない。つまらない。苦しい。向いてない。
そして、さらにいうと「他人のために何かをしてあげている」のだから「何かをちょうだい」と期待・要求してしまうこと。
これが一番よくない。

大事なので、もう一度書く。
これが一番よくない。
「何かをしてあげてるのだから、何かをちょうだい」と見返りを期待することが。




最近、とある人が講演会で実施した夫婦へのアンケートで、
・「妻から夫への要求」はどの夫婦でも、数も多く、要求内容も高い。
・一方、「夫から妻への要求」は、あまりない、今のままでいいです、空欄、などが多い。
という結果だったという記事を読んだ。

<記事>
http://www.sankei.com/life/news/150412/lif1504120009-n1.html

この記事のメインはこのことではないので、その理由の分析はされていなかった。
けれど、わたしには、「妻から夫への要求」は多く、「夫から妻への要求」はない、というこの事実が印象的だった。
この事実の理由、それは、わたしが思うに、日本の夫婦間では、
妻側が
「自分自身の死(ある程度の自己犠牲。仕事を減らす、家事育児に時間を割いて仕事を含む個人的な時間を減らしている、自分の職業的な夢をあきらめる、等。いろいろなことをあきらめること。)」
を無言で呑んで経験してしまっているからではないか、と思う。
つまりは、「良きハウスワイフ」をがんばっているから、ということ。
だから、夫に対して「そのぶん○○してよ」という期待や要求をぶつけてしまっているんじゃないかと。




だから、わたしは、「脱・良きハウスワイフ」宣言をしたい。
だってそんな風に生きたくないもの。
他人のために何かをやって、その結果、見返りを期待・要求すること。
自分のために生きたいもの。

きっと、男性側、日本の夫たちだって、「良きハウスワイフ」の結果、見返りを期待・要求されるなんて、窮屈で嫌な思いがするとも思うもの。

「良きハウスワイフ」ではなく、ただ自分のために「良き人間」「良き女」になりたい。




大学生のとき、アメリカに留学することに決まった。
出発する前に、仲良しの男友達が
「籠の中で羽ばたこうともがいてた鳥が、やっと籠から放たれたって感じがする」
といって、籠から飛び立った鳥のイラストをくれた。

彼は美大生でもなんでもなかったし、絵がうまいわけでもなかった。
だけどこのイラストはわたしの脳内でとても大事なものとしてしまわれている。
このイメージ、この精神を忘れずに、いたいって思う。




寺山修司の「青女論」という本を昔読んだ。

それを読んだときにメモしていた内容。
今、改めて大事だと思うので、改めて書く。

・「らしさ」からの脱出というのは、固定化しない、他人の生き方にとらわれない、ということです。
・女らしさ、などは存在しないのです。
 泳ぎながら料理をしたり、走りながら編み物をしたり、キスしながら唄をうたったりできるとは思いませんが
 ともかくも「何でもできるのだ」ということに確信をもって下さい。
・人生はあっというまに終わってしまうのです。
 自分で生きやすい現実を作らない限り、戦前の女性たちのように、男性中心社会の補完物として、悲しい一生を遂げることにならないと限りません。