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美しいもの。本、映画、音楽、そしてそのほか雑文

佐藤泰志「黄金の服」(「オーバー・フェンス」含む短編集)

佐藤泰志の短編集「黄金の服」(「オーバー・フェンス」を含む)のあらすじと感想です。
佐藤泰志の小説を読んだのは初めてだったのですが、とてもよかったです。

イントロダクション(本の背表紙より)

青春の閉塞感と破壊衝動を鮮やかに描く短編集。
今回映画化された「オーバー・フェンス」は、作者が故郷函館で職業訓練校に通った体験を元にした作品。

佐藤泰志の文章から洩れる「光」

映画「オーバー・フェンス」が素晴らしかったので、原作を読んでみたら、原作のほうがもっとすごかった、というお話です。

「黄金の服」というこの短編集には、表題作の「黄金の服」、映画化された「オーバー・フェンス」、そして「撃つ夏」の計3作品が収録されています。

中でも「オーバー・フェンス」と「黄金の服」は作者の独特な作風である、暗く地を這うようでありながらそこに澄んだ風や輝く光がみえるような、そんな美しさに溢れている作品でした。
(両作品とも芥川賞候補になりました)

個人的に、一番よかった小説は「オーバー・フェンス」です。

私自身は外国文学を好みがちで、日本人作家では夏目漱石村上春樹だけが別格に好きです。その他の戦後の日本人作家もたくさん読みましたが、それほど好きになれる作家はいませんでした。
しかし、この佐藤泰志の作品には心を奪われました。
なんというか、梶井基次郎檸檬」やサリンジャーの短編小説を読んだときの感覚に近い気がしました。それが一体なんなのか、正確に表現することが難しいのですが、小説や文章から木洩れ日のように見える「光」と、それからまさに「ひりつくような痛みや脆さ」の感覚だと思います。


オーバー・フェンス

あらすじ。

妻に見限られ故郷に戻った男が、溌剌と生きることを諦めて親家族とも会わずに飲みにも出かけずにいるところへ、職業訓練校の近からず遠からずの距離感の仲間たちとソフトボール大会に出ることや、ある女性「さとし」との出会いがあり。
男は、溌剌と生きる希望を見出せるのか?

平凡といえば平凡なあらすじ。

それなのに、淡々としたなかに光がみえる文章と、文章の絶妙なテンポ、あとはその語りの途中途中に少しずつはさまってくる辛い過去のせつなさや諦めや絶望の心情の描き方(基本的には前の結婚がうまくいかなくなったことの追憶。離れて暮らす娘のベビー靴が本来は自分の玄関にあるはずなんだという文章。夫婦がうまくいかなくなったときの出来事の追憶などなど)が、もう、素晴らしい。
バッターボックスのシーンで急に入ってくる一文「もうはっきりしていることは、僕自身二度と娘の顔をみることはないということだった」。このあたりの大事な一文の入れ方、文章のテンポが、主人公の思考回路や感情の昂りを読み手にも感情移入させることに一役買っていると思う。

また、同じくバッターボックスでの「ここまで来てどうもこうもあるか」という主人公の心の中のせりふ、これが、自分の結婚の状況、函館にもどってきた職業訓練校での自分の人生全般の状況、ソフトボール大会の試合の状況、すべてにかかっているところあたりもうまい。

さとしに惹かれ変わっていった点も、説得力がある。さとしには最近中絶したという出来事があり傷を負っているということで、自分とのさとしの共通点がある。また、さとしが彼自身をあるがままに理解したり認めてくれたりしている様子をさりげないせりふなどで見せている。


黄金の服

あらすじ。

この小説は、あらすじはあってないようなものだと思う。
20代の男女入り混じりの5人のグループが、毎日泳いで、飲んでを繰り返す夏の日。恋愛事件や数日間の旅行のようなものもある。そんな中、主人公たちの「何者にもなれない焦り」や「生きていながら死んでいるも同然という諦念の客観視」などの心情が描かれていく。

タイトルの「黄金の服」はスペインのロルカという詩人の詩の一節で「僕らは共に黄金の服を着た」というところからとられている。小説の中で登場人物たちの交わす会話で、この詩の一節が言及され、「若い人間が、ひとつの希望や目的を共有できるかということ」という解釈として、会話に登場する。
こういうタイトルのつけ方、好きだ。小説の主題を表す他者の芸術作品のタイトルをつける。そしてそれをちらりと小説の中に登場させる。



さいごに

単行本の「あとがき」のなかに、作者による以下の一文がある。

「僕にいえることは、本当に書きたいこと、書けることのみを、僕自身の方法で表現したいという、単純なことだけだ。」

1990年に41歳で自らの命を絶ったこの作家が、1989年に書いた、このシンプルで、嘘も飾りもない、一文。
胸がぎゅっと締め付けられた。