Modern Life Is Rubbish

美しいもの。本、映画、音楽、そしてそのほか雑文

フィッツジェラルド「夜はやさし」と、Blur「Tender」

フィッツジェラルド
夜はやさし
原題“Tender is the Night”



14時間のロングフライトの飛行機の中で、一気に読んでしまった本。
想像した以上に、自分にとって大切な、記憶に残る小説になってしまった。

この小説は、ものすごく不完全な二人の人間のものすごく濃密で、ものすごく繊細な、不思議な依存関係と絆を描いている。

主人公の二人の男女は、表面的には完璧に魅力的な人間。美男美女、裕福で賢く、性格も魅力的な二人。
そのきらびやかな表面の裏は、えげつないもので構成されているのだった。

近すぎる距離がもたらす、憎さと愛情。
そしてその関係により壊れていく男。



この小説には「オリジナル版」と「改訂版」がある。
現時点で日本語で読めるのは
・オリジナル版: ホーム社集英社の森慎一郎氏訳
・改訂版   : 角川文庫の谷口陸男氏訳
の2つ。

私が読んだのは「オリジナル版」だけである。が、様々な情報、及び「オリジナル版」を読んだ感想として、
おそらく「オリジナル版」の方が、より愉しい読書時間を過ごせるのではないかと思う。

オリジナル版と改訂版は、時系列の順序構成が異なる。

・オリジナル版:
第一巻 ローズマリーとの出会い、パーティーざんまいのきらびやかな世界
第二巻 主人公男女二人の「過去」、そこから第一巻時点の時系列まで進み、その後の二人
第三巻 男の崩壊の過程

・改訂版
第一巻 主人公男女二人の過去
第二巻 ローズマリーとの出会い、パーティーざんまいのきらびやかな世界
第三巻から第五巻 その後の二人、男の崩壊の過程

つまり、オリジナル版では、現在→過去→現在と進んでいくのに対し
改訂版では、過去→現在という、時系列がすっきりした形で進んでいくのだ。

オリジナル版での第一巻は謎めいている。何かが起こりそうで何かの秘密がある。描写はきらきらしていて表面的である。だから最初に読んだとき、第一巻はどうしても急いで読んでしまい、斜め読みに近い形で読んでしまった。
早くその謎、秘密を知りたいのだ。

そしてその後の第二巻(過去)、第三巻は、うって変わって、描写が濃密。表面的ではなく、あくまで内面や人物の関係性の描写の濃さ。第一巻の表面的さと真逆で、そのコントラストがとてもおもしろい、そして第二巻以降は読む側はまさにむさぼるように読んでしまうのだ。

例えば第二巻から、ある印象的な文章を引用してみる。

「これほど美しい塔なのに、自力ではまっすぐ立っていられず、ただぶら下がっているだけ、
 この自分にぶら下がっているだけだとは。
 ある点まではそれでもかまわない。
 男とはそのためのものだ。
 梁となり桁となり、思考と対数をつかさどる。
 だがどういうわけか、ディックとニコルは、正反対のものが相互に補い合うという関係ではなく、
 同等なものとして一つになってしまった。彼女はディックでもある。
 骨の髄の渇きのように、彼の一部になっている。」

このえげつなさ、そして美しさ、描写の繊細さ。

一言で言うと、この本は無駄も多いし、描写も緻密すぎて気詰まりする読者もいるかもしれない。
フィッツジェラルドの代表作「グレート・ギャツビー」と比べてもなんというか、構成が安定していない。
だけれどその不安定さ、未完成さ、無駄も含めて、筆者の魂を感じる、フィッツジェラルドの最高傑作なのではないか、そんな気がする。



最後に、UKロックバンド、Blurの「Tender」との関係を記してみようと思う。

フィッツジェラルドは好きで、ほとんどの作品を読んでいたので、この小説もいつか読もうと思っていた。
それ以外にこの小説を読んだきっかけがある。
ここ数年でハマったバンド、Blurがこの小説タイトルを引用している曲を作っていることだった。
その曲は「Tender」というタイトルで、
“Tender is the night”
というまさにそのフレーズから曲は始まる。
曲を作るデーモン・アルバーンは、他にもたまに小説から、曲のタイトルとかフレーズとかを引用する。
これもそのうちの1つである。

そういうわけで、「夜はやさし」を読んでみて、曲「Tender」とのつながりを考えてみて思ったこと、
それはズバリ、
夜はやさし」は全然「Tender」ぽくない。ということだった。

「Tender」という曲は、Blurの曲の中でもコード進行や旋律があまり複雑でなく、歌詞も自然界の事物や人間のシンプルな感情を表す言葉が多く、まあとにかくBlurの曲の中ではかなりシンプルな方だと思う。黒人ゴスペルのコーラスのようなものも入っていたり、土着感みたいなものも溢れていたり。個人的には、大きな愛、人類愛のようなものを想起させるような曲だ。(ボーカルのデーモンが当時の彼女と別れたその思いが歌詞になっているとの話もあるが)

一方、小説「夜はやさし」は、シンプルとは程遠い作品だった。いや、話の筋はシンプルなのかもしれない。プロット自体は。ただ、描写が濃すぎるのだ。人物描写、人物同士の関係描写、心理描写、風景描写、すべての描写が。

だから、小説「夜はやさし」は、Blurの曲でたとえるなら、個人的にはそれは、「Battery In Your Leg」のような作品だったと感じた。
「Battery In Your Leg」は、音楽的に言えば、その独創的な旋律、静かな曲調の中で突然響くノイジーで重たいギター音などが特徴的な、密度の濃い曲である。そしてその歌詞面を語れば、これはバンドメンバーの二人の天才、デーモンとグレアムの悲しく美しく、しかし当時は不可避だった「別れ」に対するデーモンの思いがそのまま書かれている、これまた非常に濃い歌詞である。(グレアムがバンドを離脱する頃に作られた曲である)
二人は11歳12歳からの幼馴染で、その後一緒にバンドを組むわけであるが、お互いの才能と性格が全く違うという点で相互にほとんど完璧に近い形で補完しあっていた。まさにデーモンとグレアムの関係は、冒頭に私が「夜はやさし」について書いた
「ものすごく濃密で、ものすごく繊細な、不思議な依存関係」
と同じだった。
その関係が崩壊するさまを、静謐と激しさが同居した音楽で彩った「Battery In Your Leg」が、私の中では「夜はやさし」に最も近い曲だと感じられた。

で、だからどうしたって話だし、一小市民の私がどう感じようとどう思おうと、天才デーモン・アルバーンはきっと「Tender」の曲を作った時に、フィッツジェラルドのこの小説や、さらにその小説よりもっと昔に作られたキーツの詩の「Already with thee! tender is the night,」というフレーズからインスピレーションを得て書いたのだろうということに変わりはないのだけれど。
それに、小説「夜はやさし」と曲「Tender」がそれぞれ独立した作品として素晴らしいものであることに変わりはないのだけれど。
それでも、小説「夜はやさし」と曲「Battery In Your Leg」という大好き且つ全く相互に無関係の2つの作品が、超勝手ながらイメージとして自分の中で関連づけられたこと、それは、私の大切な財産になりました。