Modern Life Is Rubbish

美しいもの。本、映画、音楽、そしてそのほか雑文

やりすぎな9月

9月は初旬は友人とまったり会ったりと、ゆるりと過ごせていたのが、
9月は初旬は友人とまったり会ったりとゆるりと過ごせていたのが、
中旬から末日までは、てんやわんやだった。


 保育園の申込方法調査、必勝法検討、見学予約
→鈍行列車旅行 to 秋田 with 娘と2人きり
→イギリスドラマ観賞会@下北沢 with blur好きのお知り合い
→ソウルキャンプ@豊洲 with 夫と娘
→りんご音楽祭@長野 with 夫と娘
→保育園の見学 with 夫と娘
→1月の飛行機の日程調整、購入
文学賞締め切り、応募


ちょっとさすがにやりすぎて最終的には体調を崩してしまい。
特に保育園申込関連の事柄のストレスは、半端ない。
これはちょっとひと休み。
健康第一主義を謳う自分、初心に戻らないと。
10月はリラックス、体を大事に。


■鈍行列車旅行 to 秋田 with 娘と2人きり
・なぜ秋田か。理由はほとんどない。入道崎という男鹿半島の先っちょの岬でのんびりすることが目的。
 それと、昔からあこがれていた鈍行列車の一人旅が目的。
 今回は、0歳児の娘と2人で、1人感覚も2人感覚も両方味わえ、得した気分。
 
・鈍行で赤ちゃん連れで自分一人だけ。
 うまくいくか赤ちゃんに怪我や風邪をさせてしまわないか、緊張していたが、
 出逢う人出逢う人に助けられ、最高の旅に。
 
・窓の外をゆっくりと流れる景色、自然、雲、空、木、山、そして黄金色の田んぼ。
 こういったものを子どもの頃のようにただ眺める。
 電車の中で、音楽も聴かず、本も読まず、ただ、風景を眺めて心を空っぽにする贅沢。

・福島、山形あたりの電車で一緒になった東北訛りの女子高生4人と引率の先生のグループ。
 かっこいい車掌さんに女子いるよアピールをしたり、ふざけたり、爆笑したり。
 とても可愛く微笑ましかった。
 娘にミルクを飲ませるときなどは彼女たちも手伝ってくれた。

日本海側独特の寂しさってあると思う。
 
・北に行くに連れ、多くなっていく無人駅。なんともいえない静かな寂しさ。

・もの寂しい秋田県に突入してから聴くBlurの「Blue Jeans」の優しさったら。
 https://www.youtube.com/watch?v=SgCcvGFEBFk

・2日目にようやく辿り着いた目的地、男鹿半島の岬、入道崎。
 予想以上に最高!
 観光客もまあまあ多い。
 広大な芝生の緑、圧倒的な日本海の青、そして輝く太陽の金色。
 漁師さんがとってきたイカ、ウニ丼。ざっぱ汁。
 おいしすぎ!
 
・入道崎は陽が落ちると真っ暗で一気に寒くなる。
 最寄りの駅までタクシーで30分ほど。
 タクシーの運転手さんは、何でも語尾に「だもの」をつける、とても優しい丸顔のおじさん。
 シャッター商店街や若者が少ないことなどを寂しそうに説明してくれつつも、
 男鹿半島の観光名所やなまはげ伝説などについても一生懸命説明してくれる。
 一番最寄りの駅は、無人駅で、暗い中待つのは寒いし危ないから、と、
 一つ隣の有人駅まで連れて行ってくれた。
 
・宿泊はビジネスホテルと温泉施設が一緒になっている激安のところで。
 激安なのに、スタッフの方々みんな心遣いがあたたかく素晴らしく、感激。
 赤ちゃん用に湯沸かしポット、敷布団などを無料で準備してくれる。
 温泉内では、赤ちゃんを洗った後、自分の身体をどうやって洗おうかと思っていたところ、
 掃除中スタッフの女性が声をかけてくださり、赤ちゃんを抱っこして待っていてくださった。
 スタッフみんなの心遣いに感激して、生まれて初めてホテルに感謝の置き手紙を書いた。
 
 
■イギリスドラマ観賞会@下北沢 with Blur好きのお知り合い
・「my mad fat dairy」というイギリスのドラマを下北沢のBlue Mondayで観賞。
 日本では、DVD化もされていないとのこと。
 太っていてコンプレックスあり心に傷ありの16歳の女の子が
 大好きな音楽と共に友人、恋愛、強さを手に入れてゆく物語。
 音楽がUKロック盛りだくさんということで観に行ってきた。
 BlurOasisPulpSuedeThe Stone RosesNew OrderThe Smithsなどなど。
 ユーモアたっぷりのドラマで、楽しく観賞。
 ネットでお知り合いになったBlur好きの女の子ともはじめてリアルに会えて、楽しく。
 小説の話はしなかったからわからないけれど、音楽や映画の話はたくさんして、こういった分野で自分よりもマニアックに詳しい女の子にリアルで出逢ったことがなかったので、うれしく。
 なぜか、自分が好きな分野に関してマニアック男の子とは友達になるが、女の子とは今までになかったんだよなあ。


■りんご音楽祭@長野 with 夫と娘
DJ Yogurtの良さを改めて実感。
 DJ Yogurtは2回のステージがあり、
 1回目は追悼的な要素が強く、buddha brandの曲で大盛り上がり。
 小さなステージでローカルな感じで盛り上がれたのもよかった。
 buddha brandのトラック、かっこいい。
 最後のあたりは、同様に追悼的な感じでルー・リードなんかも流れてたな。
 
・改めてDJ Yogurtwikiみてみたら、
 「YOGURTが好きなDJは、LARRY LEVAN・ RON HARDY ・MIX MASTER MORRIS・KUBOTA TAKESHI ・DJ HIKARU・DJ NOBU・DJ HARVEY ・NICK THE RECORD・RICARD VILLAROBOSら」とあり。
 ほとんど私が好きなDJと同じ!

Tofubeatsスチャダラパーもよかったな。


■てんやわんやの中でなんとか摂取できた映画と本
リヴァー・フェニックス主演、ガス・ヴァン・サント監督の「マイプライベートアイダホ」。
 エニド・ブライトン著の「おちゃめなふたご」。
 なんとか心に美しいものを取り込むことができ、心の呼吸を。
 これらの詳細は別記事に。

初秋のセンチメンタリズム

昨日から、風は確かに秋である。
秋に変わっている。
あきらかに。


これまでより冷たい風が肌に心地よく、空も心なしか高く感じる。
真夏の異様な暑さの中にいるよりも、空気が澄んでいる感じがする。
そんなポジティブな感覚とは裏腹に、
何やらさみしくせつないきもちも同時に感じる。


そう、秋への変わりめはいつだって、急なのだ。
突然なのだ。
「徐々に」というよりは、「がらっと」「あからさまに」「がくっと」変わる。
ちょっと、受けるこちらが「ええええーーー!?」と思うほどに。
それほどにいきなりな感じがある。


それはまるで、
てのひらを返したような恋人や親友の態度の変化だったり、
突然親に話をしなくなった思春期の子どもだったり、
ある日急に肌にできているシワやシミだったり、
そういった人間のあれこれの変化のようである。


ほとんどの物事は、実際には「徐々に」進行している。
しかし、わたしたちの目は、それらの物事のゆっくりとした進行をつぶさに観察していない。
だから、「急な」変化として、感じることが多い。


夏の終わり。
このせつなさは、きっと誰にとっても、一般的なせつなさと個人的なせつなさとが混じったものになっていることだろう。
わたしにとっての個人的なせつなさは、夏が、息子と過ごす日々のひとつの象徴であることから来ている。
と、思われる。
息子はすでに数週間も前にアメリカに戻ったのだけれど、
彼の妹にあたるわたしの娘がわたしの傍らで赤ん坊らしく幸せそうに笑うたびに、彼を思う気持ちが増幅される。
楽しく過ごしているだろうか。元気でいるだろうか。笑っているだろうか。


夏の終わり、つまり秋のはじまりの、この涼しい感傷に、
いろいろな日々の些細な事柄が塵として積もって、
わたしの孤独感とセンチメンタリズムは、いい感じに加速する。

初秋のセンチメンタリズムを加速させる事柄たちは、以下。

・「エリック・サティとその時代展」に行った。
 ピアノを習っていた高校生までは、サティをピアノで弾く機会もなかった。
 たぶん「ザ・クラシック」というよりはやや不思議な音楽だし、
 技巧が必要というような曲でもないから、ピアノの先生もとりあげなかったのだろう。
 大学生になって、ジムノペディや「風変わりな美女」シリーズを聴いて、ドビュッシーのような、しかしドビュッシーよりさらに奇妙なこの旋律が、好きになった。
 それから、近年、Blurのデーモンもサティに影響を受けていることを知り、
 デーモンの音楽には確かにサティっぽさがあることを発見。
 さらにサティの音楽を聴き込むことになる。
 
 展示会では、サティの曲が流れる中、
 サティの風変わりキャラを感じる話、
 たとえばそれは
 7着のベルベット・スーツを購入してそれを7年間にわたって着続けた、だとか、
 生涯唯一の恋愛が6ヶ月しか続かなかった、だとか
 そういったエピソードに触れた。
 それから、ピカソコクトーと前衛的な舞台の仕事をしていたり、
 「スポーツと気晴らし」という新しい形の芸術作品(シャルル・マルタンの描いた風俗画集に、1曲ずつの短いピアノ曲を添えるという企画)の音楽を作っていたり、
 そういったことを知って、それらの作品にもこの展示会で触れることができた。
 サティのことを深く、というよりは、サティを含む当時の芸術シーンの空気を感じることができた。
 
 サティ展の後は、自宅でまたサティをよく聴いている。
 暗いような明るいような、
 それぞれに奇妙な題名をつけられた、美しい曲たち。
 

・息子と電話で話した。
 心なしか、テンションが低い。
 気にしても仕方がないが、気にはなる。
 たぶん何でもないか、ただ疲れているだけだろう。

 
・近頃、文学新人賞作品を読んでいる。
 いずれも、近年の受賞作品たち。
 すばる文学賞の「島と人類」、「みずうみのほうへ」、
 文藝賞の「死にたくなったら電話して」
 を読んだ。
 今は同じく文藝賞の「世界泥棒」を読んでいる。
 
 この中では圧倒的に「死にたくなったら電話して」がおもしろかった。
 ストーリーの引き込み力があった。
 「どうなるのか?」「何なのか?」といった謎ポイントがたくさんある。
 本の半分くらいまでは、日々こまぎれに読んでいたのだが、
 本の半分あたりから、続きが気になってしまい、家事育児よりも優先させて一気に読んでしまった。
 
 テーマも「こんな世界、生きる価値あるのか」「2人の人物の閉ざされた世界」など
 深いけれど、誰でも入り込める、そんなテーマだ。
 
 ただ、そんなテーマだけに、読後感はあまりよくない。
 気分が暗くなる。
 それから、この小説に、いわゆる純文学に求められる「芸術性」はほとんど感じられない。
 文体のみに絞ると、魅力はあまりない。
 
 それでも、「ストーリー」「キャラクター」「テーマ」において
 優れているのはすごく感じた。
 純文学の小説というよりは、おもしろいマンガや映画脚本のような、そんな作品だったと思う。
 とにかく、「おもしろく読める」ってことは、やっぱりとても重要だし、すごいことなんだなあ。


・この「文学賞受賞作品を読む」ことも、目的をもって「やるべきこと」としてやっているきらいがある。
 すごく好きな芸術作品に触れているわけではない。
 だから最近は、本当のフリータイムがとれていない。
 何の目的もなくただ好きなもの、好きな音楽、好きなバンドのライブ動画、好きな映画、好きな小説、そういったものを観たり聴いたりする時間がとれていない。
 こうなってくると、自分の心の栄養がなくなってくる。
 それで暗くなって、心が殺伐としたりセンチメンタルに浸ったり、する。
 さあ、今週はどこかで1日、家でまったり映画1本くらい観よう。あるいは若かりしBlurのライブ動画を観よう。
 

クローズアップ現代「ヒバクシャの声が届かない」を観た。

きょうは広島の原爆記念日
昨日放送されていた
クローズアップ現代「ヒバクシャの声が届かない」
をたまたま観た。

たまたま観ただけなのに、内容がわりとショッキングだったので、メモしておく。

なお、私は広島生まれ広島育ち(大学から東京で一人暮らし)。
なので、原爆に関する平和教育は、自然と身近なものとして、たっぷり受けながら育った。

クローズアップ現代の内容は以下の3つ。
1.ヒバクシャの語りを学校教育として実施する学校の減少。
2.ヒバクシャ自身が語り中に体験した子どもたちのショッキングな反応と、そのことからヒバクシャ自身が反省し改善したこと。
3.生存ヒバクシャが減少していく中で、被ばく体験をどのように語り継いでいくべきか。

1.ヒバクシャの語りを学校教育として実施する学校の減少。
について。
ヒバクシャ側から学校に「語りをしたい」とオファーの電話をするが、受けてくれる学校が、過去に比べて減っている。
とのこと。
以下、実例。

・とある若い男性教師
「原爆の体験は、表現があまりに生々しすぎて、子どもたちがショックを受け、心に傷を負う可能性があると考え、ヒバクシャの語りはお断りした」

・とある校長
「ヒバクシャの語りの内容で、『自分はヒバクシャなので個人的には原発は反対』『なぜ日本は被ばくしているのに原発がまだあるのか、ときかれることがある』などがあったときに、内容が政治的と判断し、語りを中断させた」


!!!!!


言論の自由がおびやかされすぎちゃいませんか?
生々しすぎたら教育の場で教育できないの?
政治的な内容が含まれていたら教育の場で教育できないの?
事実としてそれを切り取って、そのフォローをするのが先生たちの役目じゃないの?

いや、まじでびっくりしました。
と、同時に、怒りがふつふつと自分の中で沸いてくるのを感じました。

その上で、


2.ヒバクシャ自身が語り中に体験した子どもたちのショッキングな反応と、そのことからヒバクシャ自身が反省し改善したこと。
について。

とあるヒバクシャの方が、横浜で語り中に、子どもたちから、とある罵声、暴言を浴びせられたという話。
その罵声、暴言とは。

「黙れ、この死に損ない!」

という言葉だったらしい。


!!!!!!!!!!

私、娘に離乳食あげながら番組観てたのですが、
この話をきいて、嗚咽まじりで泣いてしまっていました。

ショックすぎる。

そんな言葉、どこの子が発せられるのか?
信じられませんでした。

やはり戦争、平和、原爆に関する教育が不足しているからでは?

そしてなんと、その後、そのヒバクシャの方は、その罵声、暴言を受けて、
落ち込んだり、心折れたり、すねたり、怒ったりするわけでなく
「自分の語り方が悪かった。押しつけがましいところがあった」
と反省し、語り方を改善していきます。
子どもたちに直接語るのではなく、学校の先生方に語る。
そして、何を子どもたちに語るかは学校の先生方にチョイスしていただくようにする。
という方法に変更したのです。

この反省の姿勢。
本当に素晴らしい。
感動しました。
そして、自分もこんな風な強く優しい人間でありたいと。
なかなかできないことです。

この語り方の変更自体の効果については、私は疑問ですが、そのことを差し置いて、このヒバクシャの方の大人な対応に、いたく感動しました。


3.生存ヒバクシャが減少していく中で、被ばく体験をどのように語り継いでいくべきか。
これは大きな問題だと思いますが、この番組では特筆すべきことはあまりありません。
ヒバクシャの方の話を若い人が教えてもらい、引き継いで、他人事だけれど語っていくという「語りの引き継ぎ」がされているという内容でした。
これはあまり効果的とは思えません。
わたしは、ヒバクシャの方の語っている動画をたくさん撮り溜めしておいて、学校教育で流すのがいいんじゃないのかなと思いました。
そしてその動画を学校教育で流す前に、それぞれのヒバクシャのプロフィールなどを引き継いだ生存者が説明する。
生徒からの質問もその引き継いだ生存者が回答する。
というやり方です。

ナボコフ小説「ロリータ」とキューブリック映画「ロリータ」

ナボコフの小説が原作で。
「ロリータ」という映画はこれまでに2つ撮られている。
キューブリック監督(1962年)の映画と
エイドリアン・ライン監督(1997年)の映画である。

このうち、小説と、キューブリックの「ロリータ」について書きます。
(1997年の映画「ロリータ」も昔、観たのだが、今回は観ていないので感想は書かない)

ロリータ (新潮文庫)

ロリータ (新潮文庫)

ロリータ [DVD]

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■本
ナボコフの「ロリータ」。
1955年刊。
昔読んだけれど、本を売ってしまったのか、手元になくなっていた。
再読しようと思い、
大久保訳(旧)と若島訳(新)とあるけれど、どちらにしよう、と。
いろいろ調べて、大久保訳(旧)を中古で購入。

ちなみに、本の装丁は、こんな感じで若島訳(新)のほうが素敵。
ちなみについでに一応載せる。

ロリータ (新潮文庫)

ロリータ (新潮文庫)

大久保訳と若島訳の訳文の比較は、以下を参考にしました。
http://booklog.kinokuniya.co.jp/kato/archives/2010/01/post_179.html

さらっと見た感じ、
大久保訳のほうが文章表現が古風で流麗、
若島訳は現代語調でくだけている、という印象。

このお話は、現代における「ロリータ」「ロリコン」という言葉の起源になっているように、
少女性愛者ハンバート・ハンバートと、彼が心惹かれた少女ドロレス・ヘイズとの関係を描いている。
「ロリータ」は少女ドロレスの愛称。
これが一番の設定である。
それで、まあいろいろあって、主人公と少女はアメリカをふたりで車であちこち旅しながら、性的にもまあいろいろと、ある。
少女の年齢は、物語の中で12歳から17歳まで成長する。
主人公はヨーロッパの人間であり、ヨーロッパから見たアメリカ、というのもテーマにあると思う。

設定自体、センセーショナル、ショッキング、今でも奇妙で気持ち悪いと思う人もいるかもしれない。
ストーリーのあらすじは割愛する。
おそらく物語の設定を見ただけで、手に取ってみたいと思う人は手に取るだろうし、手に取りたくないと思う人は手に取らない、そういう類の本だと思う。

この本を読んだ後、感じたことは2つ。

1.作者ナボコフの耽美主義と芸術観。
 文章が流麗すぎる。美しすぎる。素晴らしすぎる。
 読んでいるだけで、美の世界に埋もれそうになる。
 そんな気分を味わわせてくれる。
 それだけで、非常な価値がある本だと思う。
 作者自身、あとがきにこう書いている。
 「『ロリータ』は、いかなるモラルもひきずってはいない。私にとって、文学作品は、直截に美的悦楽とでも呼ぶべきものをあたえるかぎりにおいてのみ存在する。その悦楽とは、芸術(つまり好奇心、やさしさ、思いやり、恍惚)が規範となるような精神状態と、何らかのかたちで、どこかで結びついた存在感だ。」
 そしてその彼の芸術観と、まさに物語のラストの主人公の言葉とが、うまく調和している。
 ストーリーのラストがどうなるかはここでは書かないが、締めの文句はこんな具合。
 「私はいま、野牛や天使たち、永続的な絵具の秘密、予言的なソネット、つまり芸術という避難所について考える。
  ロリータよ、私がおまえと永遠の生を共にすることができるとすれば、ただひとつ、これしかないのだ」
 つまり、非道徳、執着、憎しみ、つかの間の美、こういったことの避難所として芸術がある、と。

2.主人公ハンバート・ハンバートの2つの「執着」。
 ハンバート・ハンバートはヨーロッパ出身の文学者という設定もあり、美的なことを追求する人物として描かれる。
 少女性愛もその美的追求の一つ、というスタンスで、少女ロリータへの執着を正当化しているようでもある。
 けれど、その「執着」は次第に2つの「執着」に分化していく。
 なぜなら少女ロリータは年をとり、一方でハンバート・ハンバートの少女性愛という性癖は変わらないからである。
 だから、ロリータ自身への「執着」と、
 少女性愛への「執着」と、
 2種類の「執着」に分かれていくのである。
 この物語がおもしろくて深いのは、少女性愛への「執着」だけではなく、その性癖は維持しつつも、年をとっていくロリータ自身への「執着」も描かれているからだと思う。




■映画
キューブリックの「ロリータ」。
1962年公開。

★★★★★(5点中5点)

・世間的には、原作を損なっているとか、原作を省略しすぎだとか、1997年版のほうがよいとか、いろいろといわれているけれど、
 私にはすごくおもしろかった。DVD買おうかというくらい。
 
キューブリックの映画は、なんらかの「狂気」に焦点をあてているものが多いと思う。
 「シャイニング」「フルメタル・ジャケット」「アイズ・ワイド・シャット
 「博士の異常な愛情」「時計じかけのオレンジ」など。
 (「バリー・リンドン」「2001年宇宙の旅」は狂気ではないかなあ。)
 とにかく、一般的にどう言われているかは知らないが、私はそう思う。
 今回の「ロリータ」でそれを改めて感じた。
 原作よりも、「執着」というテーマを、より浮き彫りに、描いている。
 そのことでその「執着」の「狂気」性がより印象的に描かれている。
 
・代わりに、ストーリーは、冒頭で結末的なことを描いたり、もろもろ省略されていたり、と、
 原作を読んだ人じゃないとおもしろくは観れない作りになっているかもしれない。
 しかし、ナボコフの原作の情報量は尋常ではないため、映画としては、このキューブリックの「テーマ」「キャラクター(俳優)」を際立たせる、というやり方は、素晴らしいと思った。
 
・ロリータ役のスー・リオンと、
 キルティ役のピーター・セラーズが素晴らしかった。
 主人公ハンバート・ハンバートについては、おそらく私の記憶が正しければ1997年版の「ロリータ」のジェレミー・アイアンズの醸し出す知的で美しいダメ男っぷりがまさにぴったりの配役だったかと。

・ロリータ役のスー・リオンは、アメリカ人にしては地味で小ぶりな可愛らしさと、人を小馬鹿にしたような表情としゃべり方が、すごく魅力的。
 そして何より体つきも華奢なのに色気があって、素晴らしかった。
 脚を鍛えたいなと思わされた。
 
・キルティ役のピーター・セラーズは、変態、奇人のキルティにどっぷりなりきっていた。すごかった。
 特に、ホテルの共同テラスのような場所で、主人公とキルティが夜、会話するところ。
 あそこは彼の名演技のためのシーンのようだった。
 キルティの変態、奇人っぷりは、映画のほうが100倍印象的になっている。

 
 

良きハウスワイフこそ善という幻想



きょうのBGM。
Blur漬けからちょっと離れて、久々にMixmaster MorrisのチルアウトDJ。
https://www.mixcloud.com/mixmastermorris/mixmaster-morris-nubient-big-chill-bar-london-april-2013-pt2/
このトラックリストの9番目の「bubbleman by DJ Wally」っていう曲が好きです。




さて、わたしは現在、育児休職中、である。
つまり、テンポラリーの専業主婦。
来年からは復職予定ではあるけれど。
今年は、育児と家事が「仕事」の日々。

このたび結婚して、はじめてのこの状態(自分が経済的にはお金を稼いでいない)なので
微妙に夫婦間での分担や立ち位置のバランスが変わってきている。

と、いう背景がありつつ。

思うのは
「良きハウスワイフ=善」
「子ども+良きハウスワイフ=家庭円満」
などという等式は幻想にすぎない、ということ。


まあ、「良きハウスワイフ」をがんばることにちょっと疲れてきてるんだと思います、自分。
うちの今の環境は、赤ちゃんも穏やかで夜もぐっすり寝て比較的全然手がかからないほうだし、夫も私が外出するときは文句ひとつ言わず赤ちゃんを見てくれて、それは幸せな、満たされた、ノ―ストレスな育児ライフが送れてる。
それが事実。
それでも、日によるけれど、「あー、家事育児で一日終わってしまったな」とか「気づいたらなんか、一日じゅう皿洗いしてないか?」とか、そんなふうに落ち込む日がたまにある。
使う時間の割合として自分の趣味に使える時間が増えればいいというだけでなく、なんというか目に見えない家庭の中でのパワーバランス的なものも、結婚前や出産前と変わってきている。

やっぱり、どんなに嫌な仕事、どんなにつまらない(と自分で思う)職業であっても、自分の手で社会的な仕事をしてお金を稼げるだけ稼ぐ、っていうことは、人間の自立、人間の尊厳、人間の精神衛生にとって、非常に大事なことなんだなあ、と思うわけで。
自分の家の家事育児って、金銭的価値に変換されないから。

なお、この文章は、「専業主婦批判」ではありません。
ただ、「自分は専業主婦、良きハウスワイフをがんばることには向いていない」という主旨のものです。




ハウスワイフっていうのは、いわゆる「専業主婦」。
日本語というのは恐ろしいもので、漢字の言葉にされると、正確な意味が何なのかごまかされるようなところもある。
英語でいうハウスワイフのニュアンスは、日本語WordNetとoxford dictionary(英英辞典)がしっくりきたので転載。

<日本語WordNet
housewife
a wife who manages a household while her husband earns the family income
夫が家庭の生計を稼ぐ間家事をする妻

<oxford dictionary>
housewife
A married woman whose main occupation is caring for her family, managing household affairs, and doing housework
家族の面倒を見、家庭に関する庶務をやりくりし、家事を行うことが、主な職業である、既婚女性




「夫が稼いできてくれているんだから」という良心、感謝、労いなどのポジティブな感情から
家事と子どものことをすべて妻ががんばってこなし(「やってあげて」)、夫に従順であり、夫を立てる。
それが「良きハウスワイフ」の典型像だと思われる。
日本の夫たちが、結婚や妻にそれを期待している、と妻側が勝手に思い込んでいるから、妻が勝手にそれを演じている、ということもあるだろう。
また、妻側の思い込みだけじゃなく、実際に、多くの日本の夫たちはそういったことを多かれ少なかれ、結婚や妻に期待しているのだろう。

わたしもそういうことを期待されているのかなという感覚もあったので、出産後の一時的に育児休職中という状況の中、「良きハウスワイフ」的な像をイメージしながら、今までより意識的にその像に近づくようがんばってきてみた。
まあそれでも、世の一般的な「良きハウスワイフ」には程遠い、自分勝手で気ままで趣味に時間を費やす生活を送っているとは思うけれど。
そんな気ままな生活の中でも、家事育児分担は何も言わずに以前より自分がかなり負担したり、夫は働いてくれてるんだから家でくらいゆっくりしてもらおうという気遣いをもったりと、出産前に比べるとかなり「良きハウスワイフ」的になったと思う。




けれども、はたして本当にそれが「いい女」なのか?
女性自身にとっても、男性たちにとっても、そんなの決して「いい女」ではない、と、最近再び思い始めた。




というより、
自分がどう思うか、どうなりたいか、が重要なわけだけれど。
わたしは本当にそういう女性になりたいのか?


なりたいの?


たぶん、なりたくはないです。
でも、いろいろなことを円滑に生活していくためには、「良きハウスワイフ」的な像も多少は必要。

だけどそれにとらわれすぎて、自分自身をなくしたり、謙遜しすぎて卑下に至ったり、自分の好きなことに使う時間がなくなったり、そういった状態になることは避けたい。
そんな状態は、つまんない。

つまらない。

なるべく、自分自身は、結婚前の状態と変わらないでいたい。
結婚したのだから、状況が変化することは当然。それも理解してる。
けれどやはり個として自立し、自分のためにやりたいことをやって、遊んで、楽しんで、行動的でいないと、
死んでるのと同じなんじゃないか、と思うわけです。

きっと「他人のために何かをしてあげている」という状態がよくないんだと思う。
たとえば昔ながらの典型的日本家庭の(まあ今の日本ではこんな家庭少ないかもだけれど)
「夫が稼ぎ、妻は専業主婦は夫の家での生活を含めて家のことを全部やる」形。
これはお互いに「他人のために何かをしてあげている」という状態。
もちろん、これでも大丈夫な人たち、問題ない人たち、精神的自立を保てる人たちは、沢山いるんだと思う。
でも、たぶんわたしにとってはこの形はよくない。つまらない。苦しい。向いてない。
そして、さらにいうと「他人のために何かをしてあげている」のだから「何かをちょうだい」と期待・要求してしまうこと。
これが一番よくない。

大事なので、もう一度書く。
これが一番よくない。
「何かをしてあげてるのだから、何かをちょうだい」と見返りを期待することが。




最近、とある人が講演会で実施した夫婦へのアンケートで、
・「妻から夫への要求」はどの夫婦でも、数も多く、要求内容も高い。
・一方、「夫から妻への要求」は、あまりない、今のままでいいです、空欄、などが多い。
という結果だったという記事を読んだ。

<記事>
http://www.sankei.com/life/news/150412/lif1504120009-n1.html

この記事のメインはこのことではないので、その理由の分析はされていなかった。
けれど、わたしには、「妻から夫への要求」は多く、「夫から妻への要求」はない、というこの事実が印象的だった。
この事実の理由、それは、わたしが思うに、日本の夫婦間では、
妻側が
「自分自身の死(ある程度の自己犠牲。仕事を減らす、家事育児に時間を割いて仕事を含む個人的な時間を減らしている、自分の職業的な夢をあきらめる、等。いろいろなことをあきらめること。)」
を無言で呑んで経験してしまっているからではないか、と思う。
つまりは、「良きハウスワイフ」をがんばっているから、ということ。
だから、夫に対して「そのぶん○○してよ」という期待や要求をぶつけてしまっているんじゃないかと。




だから、わたしは、「脱・良きハウスワイフ」宣言をしたい。
だってそんな風に生きたくないもの。
他人のために何かをやって、その結果、見返りを期待・要求すること。
自分のために生きたいもの。

きっと、男性側、日本の夫たちだって、「良きハウスワイフ」の結果、見返りを期待・要求されるなんて、窮屈で嫌な思いがするとも思うもの。

「良きハウスワイフ」ではなく、ただ自分のために「良き人間」「良き女」になりたい。




大学生のとき、アメリカに留学することに決まった。
出発する前に、仲良しの男友達が
「籠の中で羽ばたこうともがいてた鳥が、やっと籠から放たれたって感じがする」
といって、籠から飛び立った鳥のイラストをくれた。

彼は美大生でもなんでもなかったし、絵がうまいわけでもなかった。
だけどこのイラストはわたしの脳内でとても大事なものとしてしまわれている。
このイメージ、この精神を忘れずに、いたいって思う。




寺山修司の「青女論」という本を昔読んだ。

それを読んだときにメモしていた内容。
今、改めて大事だと思うので、改めて書く。

・「らしさ」からの脱出というのは、固定化しない、他人の生き方にとらわれない、ということです。
・女らしさ、などは存在しないのです。
 泳ぎながら料理をしたり、走りながら編み物をしたり、キスしながら唄をうたったりできるとは思いませんが
 ともかくも「何でもできるのだ」ということに確信をもって下さい。
・人生はあっというまに終わってしまうのです。
 自分で生きやすい現実を作らない限り、戦前の女性たちのように、男性中心社会の補完物として、悲しい一生を遂げることにならないと限りません。

映画いろいろ

なるべく短く数行で、ここ最近観た映画たちの設定と感想を。

基本、順不同だけれど、印象的だった映画をなるべく上のほう、あまり印象的でなかった映画を下のほうに。



■No Distance Left To Run(2010年イギリス)
Blurドキュメンタリー映画
幼い頃からの友情、結成、成功、苦悩、いさかい、解散、再結成について。
友情と実際歩んできた道のりをベースに描かれる。
ライブ映像やインタビュー、その他オフの映像などを交えて、作成されている。

★★★★★(5点中5点)

Blurの新アルバムを心待ちにしつつ、YouTubeで先行公開されている「Go Out」「There Are Too Many of Us」「Lonesome Street」、を聴いている。
そして、これまでのBlurの曲たち全部、それからデーモンのGorillazの曲たち全部を改めて毎日聴いている。
それから、とうとう、好き過ぎて手を出していなかった、この映画「No Distance Left to Run」も観た。
この「好き過ぎて手を出していなかった」という感覚は、
たとえるならば、
戦を遊びと捉える将軍が「あの神聖な高地にある砦までは攻めなくても、まだまだこっち側の地上サイドで遊べるし」という風にのたまうような、そんな感覚である。

この「No Distance Left to Run」、
ディスク1がドキュメンタリー映画、ディスク2がライブ映像。
ディスク1の1時間40分ほどのドキュメンタリー映画を観るのに、なんとわたしは4時間もかかってしまった!

字幕で出る日本語訳がイマイチぴんとこなくて、何度も英語を聴き直したりしながら観たのと、
好きな場面は繰り返し観るというこのマニアックな気質とが原因か。

大まかな感想としては、Blur好き、バンド好き、友情もの好きとしては満点の仕上がりになっている。
Blur好きじゃなくてもバンド好きなら、満点レベルで楽しめると思う。
Blur好き、バンド好きじゃなくても、友情もの好きな人なら5点中4点くらいで楽しめる作品になっていると思う。
Blur好きでもなくバンド好きでもなく友情もの好きでもない人にとっては、さほどおもしろくないかもしれない。

この映画についてだけは、別途改めて詳細に書こうと思う。



■彼女を見ればわかること(2000年アメリカ)
女子にまつわる恋愛を中心とした5つの話がオムニバスで描かれる、静かなリアリティあふれる映画。
★★★☆☆(5点中3点)

ひとことでいうと、女子のめんどくささがわかる映画。
10年以上前にほぼリアルタイムでみたときは、これを観て大人の女性になった気がしていた。
けれど、実際に大人の女性になった今観ると、「女子ってマジでめんどくさい」「自分で不幸を背負い込んでしまっている女たちの物語」というネガティブな物語に見える。
その感想の違いがおもしろかった。



■モスキート・コースト(1986年アメリカ)
文明社会を嫌悪する、発明家の父。
彼に連れられて、その家族たちは、北米での生活を捨て、中米の未開の地「モスキート・コースト」で住み、理想の世界の構築を試みるが・・・。
★★★★☆(5点中4点)


原作はポール・ソロー。ハリソン・フォードが父親役、リバー・フェニックスが長男役として出演。
リバーの美しさをめあてで観はじめたが、設定も興味深いし、ストーリーも二転三転で展開も早くいろいろな出来事が起こり、おもしろく観れる。
リバーが父を尊敬しつつも、徐々に父の極端な思想と行動に懐疑的になりはじめる長男を好演。
演技が演技でないように見えるほど、自然でこまやかでせつない表情が印象的。
ハリソンフォードもいつものかっこよく正しく正義に満ちただけの役どころでなく、すごく癖のある人物をさすがの存在感で熱演!
文明vs.未開という表面的なテーマの裏で、教祖的狂気的人物のたどる運命みたいなものを描いているので、物語に深みがある。



■旅立ちの時(1988年アメリカ)
その四人家族は転々と暮らしていた、なぜなら両親は指名手配中のビル爆破テロリストだから。
それでも子どもたちは反発せず親に気を遣い愛をもって穏やかに生活する毎日。
このままだと、高校生の長男の人生はどうなるのだろうか。
★★★★★(5点中5点)


これもリバー・フェニックスが長男役として出演。
ラストシーンが秀逸です。泣けます。
それ以外も泣ける場面はありますが、何はともあれラストシーン。
これぞ映画!という感じです。
リバーは変わらず美しいですが、髪型や少年ぽさなど、「モスキート・コースト」の頃が美しさの頂点かと思われます。
あと、邦題の付け方がいまいちかなあと思いました。
原題は「running on empty」。



風と共に去りぬ(1939年アメリカ)
アメリカ南部のお金持ちの家の美人令嬢スカーレット・オハラ南北戦争でさまざまなトラブルに遭いつつも、自己中心的性格ながらも不屈の精神をもって強く生きていく物語。レット・バトラーという魅力的な色男との恋愛模様も描かれる。その他、アシュレーという浅ーい男にスカーレットが恋心を抱いていると自分で勘違いしている様子や、そのアシュレーの妻メラニーの完璧なまでの誠実ですばらしい聖母のような人柄が描かれる。
★★★★☆(5点中4点)


これって誰が観ても、おもしろく観れるんではないだろうか。
これが今回のいちばんの感想。
やっぱり不朽の名作というのは違う。

13年前に観たときの感想は、以下。
http://d.hatena.ne.jp/bandeapart1/20020515/p1

今回観た感想は、まずそれぞれのキャラが素晴らしくキャラ立ちしているということ。
メインの4人のキャラの描き方が、マンガのようにくっきりしていて、それだけでおもしろいし物語が転ぶ転ぶ。

・スカーレット:勝気で情緒不安定、自己中で感情的、それでも唯一の美点といえる彼女の「不屈の精神」が物語を支える。
・レット:結婚を避けてきた独身貴族で、浮世離れし、世の一般論に流されない、さすらうような色男。世間から見たらちょっと癖のある嫌な奴だが、その余裕と現実的な側面、そして女性に対してストレートな愛情表現と強引さなど、実際はかっこよすぎる男。
・アシュレー:お坊ちゃんで、世間知らずで、現実と向き合えない、気持ち悪い男。
メラニー:優しく慈悲深い、完璧な女神、聖母。人間としてできすぎた素晴らしい人。超悪意のあるスカーレットのことを実の姉妹のように慕う。


それから、以下はメモした名セリフ。

・「あの方は耐える力を授かっていなさる」
スカーレットに降りかかった苦難に対し、黒人メイドが言う言葉。
→(感想)そのくらいの強さを持ちたい。

・「自己満足のつまらん告白は災いを招くだけだ」
自分がアシュレーを愛しているとアシュレーの妻メラニーに告げようとするスカーレットに、医者が忠告するときの言葉。
→(感想)自己満足のためだけの要らぬ言葉を言わないようにしたい。

・「彼女は夢だった。現実に負けない夢だった」
メラニーのことをアシュレーが語る場面。
→(感想)アシュレーは現実に弱い、夢見がちな人物として描かれている。なので、一見、このセリフもとてもアホっぽい。けれども、実際、現実世界のほとんどの男性が、程度の大小こそあれ、女性に対してこういう「夢」というような理想、つまり現実から引き離してくれるようなものとしての理想を抱いているのではないかと思う今日この頃。自分も男性にとっての「夢」のような存在でありたいなあ。



her/世界でひとつの彼女(2013年アメリカ)
最近失恋した主人公男性の新たな恋人は、コンピュータの中にいる人工知能型OSだった・・・。
マルコヴィッチの穴」のスパイク・ジョーンズ監督・脚本。
★★★★☆(5点中4点)

実際に近い将来起こりそうな設定という時点ですでにおもしろい。
コンピュータとセックスするんだから、もうそらぶっ飛んでます。けれどリアル。
コンピュータとの恋愛を否定もせず肯定もしない(というか肯定側かな?)作者の考え方が伝わってきて素敵でした。
監督・脚本のスパイク・ジョーンズは、ソフィア・コッポラの元旦那さんということで、ふわふわきらきらのきれいな映像の感性もなんとなく納得。



桐島、部活やめるってよ(2012年日本)
「桐島が部活やめるってよ」という噂をめぐって、その周囲の少年少女たちの学校特有のヒエラルキーと、繊細な感情の揺れ動きを描く青春映画。
★★★★☆(5点中4点)

映画の最後に近い部分での、屋上での、音楽を爆音で流しつつ、セリフ無しの長ーいシーンが素晴らしい。
これぞ映画という感じ。
このシーンを描きたくてこの映画を撮ったのではと思うくらいのシーンでした。



グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち(1997年アメリカ)
監督はガス・ヴァン・サント。「KIDS」や「マイ・プライベート・アイダホ」「エレファント」の監督です。
孤児で不遇な生い立ちの主人公が実は数学天才であり、しかし不遇な生い立ちから心に傷をもっており、心を閉ざして生きている。
そんな中、とある数学教授との出会いを通して、心理学教授兼セラピストの男やもめと出会い、彼とのセラピーの中で徐々に心を開いていく。同時にセラピストのほうも、彼とのセラピーを通して、自分自身と向き合うようになっていく。
★★★★☆(5点中4点)

マット・デイモンハーバード大学在学中に書いた脚本が元になっているとのこと、その才能には頭が下がります。
アカデミー賞脚本賞受賞。
周囲の友人との友情や、セラピストとはぐくんでいく友情に似た関係、などたくさん感動する場面があります。
それから監督がガス・ヴァン・サントということで映像と音楽が美しい。
映像は緑が印象的、音楽は陰鬱ながらも美しいエリオット・スミスが多用されており、せつない雰囲気にしあがっている。
特にエンド・ロールの映像と音楽が美しい。
ストーリー及び設定だけだと、★★★☆☆で5点中3点。
感動を前面に押し出しすぎているところと、設定が孤児が天才というあまり現実的でなく感情移入がしにくい点がある。
ただ、映像と音楽でプラス1点して、★★★★☆5点中4点。



■東京難民(2014年日本)
ある日突然、大学生男子の主人公は、親からの学費や仕送りをストップされ、大学を余儀なく辞めることになり、家賃も払えなくなり、さまざまなバイトをしつつ、ネットカフェに寝泊まりする毎日。そんな中、さまざまなトラブルに遭遇し挙句の果てには夜の世界にまで踏み込んでしまう・・・。主人公に明るい未来は来るのか。
★★★★☆(5点中4点)

一言で言うと、見入ってしまう、引き込まれてしまう、映画だった。
そしてもう一言言うと、観終わった後、なんとも暗い気分に浸ってしまう。
表面的に「暗い気分になる」というレベルではなく、心底の暗い気分、まるで脳味噌が灰色の沼にはまりこんでしまったかのような世界にまで連れて行ってくれる。
それほど、脚本、映像、演技、それぞれ素晴らしいものだったのだと思う。
特に主人公を演じた中村蒼と、ヒロインの大塚千弘の演技は、もの悲しく、印象に残る。
ただ、もう一度観たいかといわれると、もう観たくはない。
そんな映画だった。



■ダラス・バイヤーズ・クラブ(2013年アメリカ)
1980年代当時、無認可だったHIV代替治療薬を密輸販売し、アメリカのHIV患者が特効薬を手にできるよう奔走した、実在のカウボーイの半生。
★★★☆☆(5点中3点)

実話ベースなだけあって少し話がまわりくどいというか長いなあと感じる部分がある。
それでも、設定が「アンチ社会だけど正義の人」っていうクールな設定なので、観れる。
設定というか実話ですが。



ビューティフル・マインド(2001年アメリカ)
研究にうちこみすぎてわけがわからなくなっていく天才数学者の半生。実在するジョン・ナッシュの物語。
★★★☆☆(5点中3点)

途中おもしろくなってくるけれど、ちょっと長いかなあと感じた。
展開のおもしろさ(ちょっとびっくりする展開がある)、単純なきれいな夫婦愛だけじゃない愛の形、などを描いている点が評価されてか、アカデミー賞作品賞、監督賞を受賞しているみたいだけれど、ちょっと重たくて長い映画。



アメリカン・ハッスル(2013年アメリカ)
1970年代後半のアメリカを揺るがした政治家などの収賄スキャンダル、アブスキャム事件を題材にしたドラマ。自由と引き換えに、FBIが仕掛ける悪徳政治家検挙を狙ったおとり捜査に協力させられる詐欺師たちの行く末は・・・。
★★★☆☆(5点中3点)


エンターテイメント映画として楽しめる。
エイミー・アダムスが、普通っぽい顔立ちなんだけれど、それがセクシーでかわいい。




インターステラー(2014年アメリカ)
地球が住める環境じゃなくなってきたので、次に住むための星を探しにいく男の物語。
ミッションと家族と過ごす時間との間の葛藤。次から次へと起こるトラブル。
★★★☆☆(5点中3点)

概念として5次元の存在がでてきたり、発想がものすごい、SF映画



■ガンズアンドゴールド(2014年オーストラリア)
ユアン・マクレガー扮する有名強盗犯と、青年JRが、表面的には父子に近い関係になっていきながら、2人で協力して、裏社会のとある犯罪を実行する。しかし、2人の関係は次第に変化していき…。
★★★☆☆(5点中3点)

犯罪が進行する一方、ユアン・マクレガ―と青年の関係の心を描いたり、裏社会にかかわる若者たちの「普通の日常」へのあこがれを描いたりと、感情面もきちんと描かれており、エンターテイメントとしておもしろく観ることができる。
「トレイン・スポッティング」のユアン・マクレガーも、アメリカ映画にもうずいぶん出ているので、スコティッシュな英語アクセントがだいぶなくなっています。そしていでたちもまるでアメリカ人のように、もさい。
昔の英国風のユアン好きとしては、少々寂しく。
あとはこれも邦題がいまいちかなと残念。
原題は「SON OF A GUN」。

Blur新作ジャケの怪

2015年4月27日にBlurがニューアルバムをリリースすることが正式アナウンスされた!
アルバムタイトルは「The Magic Whip」。
http://www.barks.jp/news/?id=1000112915

シングルじゃなくって、アルバム!
なんとも。
感無量。

わたしの重すぎるBlur愛とBlur分析は、いついつか書こうとずっとあたためてあった、そしてあたためてある。

が、その愛を一言で表現するならば
「glastonbury 1994 のBlurのライブ動画(特に"This Is A Low")を観て、『生まれ変わったらBlurになりたい』と真剣に思った」
ということになる。
そのくらいのとち狂い具合である。



そしてそのくらいとち狂っているわたしは、このジャケの想定外のダサさがどうしても気になる。

・・・。
なんで???(涙)

香港でレコーディングしたということで、かなりオリエンタルなジャケ。ということらしいのですが。

・・・。
なんで???(涙)(再)


彼らの感性を愛し、信頼しているからこそ、このショックは大きい。


だって、"For Tomorrow"や"The Universal"、"Coffee & TV"、"Music Is My Rader"など数々の超かっこいいMVを出してきたこの方たちですよ。

https://www.youtube.com/watch?v=F156egcVGp0
https://www.youtube.com/watch?v=Papa_qi7evU
https://www.youtube.com/watch?v=GXRVX1AKAew
https://www.youtube.com/watch?v=hqXnC4Wk5bs



だって、メンバー4人中3人は、アート系分野で有名なロンドン大学ゴールドスミスカレッジ出身ですよ。


だって、「Modern Life Is Rubbish」リリース時にあわせて出された写真は、このスタイリッシュな「British Image 1」ですよ。

だって、グレアムはファインアート専攻で、Blurの過去のアルバムのアートワークだって手がけてるし、自身のソロアルバムのアートワークだっておっしゃれーなものたくさん作ってるんですよ。


だって、デーモンだって、Blur活動停止後のGorillazで、圧倒的にかっこいい音楽をハイセンスなCartoonキャラがうたっているという独特の洒落た設定で、大成功ですよ。

だって、メンバー(※当時のメンバー)みんながサリンジャー好きだったということで、Blurという名前でメジャーデビューする前は、バンド名は「シーモア」だったというくらいですよ(これはアートデザインとは関係ないか)。


ふぅ。
落ち着こう。
落ち着け、自分。


信じよう。
今回のジャケの想定外のダサさは、Blurのいつもの意図的な諧謔であるのだろうと。
いつだってデーモンは世の中を茶化すのが大得意なのだから。


そして信じよう。
肝心の曲は、いつものとおり、超絶かっこいいと。

なぜ人は

息子の誕生日を一緒に祝うため、アメリカのオハイオ州に来ている。

オハイオの冬は東京などでは味わえないほど寒い。
毎日が氷点下の気温で、たとえば昨日車にのったときに車内に表示された外気の気温は、華氏7度。摂氏で言うとマイナス13度ほどである。
一度積もった雪は、なかなか融けない。
雪降りの日でなくとも、だいたいが雪景色となっている。
そういうわけで、ここでの冬の暮らしは、毎日、室内にいるか、車で移動する。
外を長時間歩く人などまず見かけない。
外を10分ほど歩けば、顔の肌が痛くなってくるのだ。
それはひりひりというのとも違うし、きんきんというのとも違う。
日本では体験しないような、肌の奥まで届くような、それでいて麻酔をされたように少し無感覚な、鈍いような、表面的なような、両面的な、痛み。
道路だって、雪が積もっていては危ないから、融氷雪の塩をまく除雪車がいちいち早朝に稼動する必要がしょっちゅうある。


こういうレベルの寒さの場所に滞在していると

「なぜ人は、こんなところにわざわざ住むのだろう?」

という疑問が頭に湧いてこざるをえない。


ほんとうに、「なぜ?」


それから、わたしは今、授乳中の赤ちゃんの母親でもあるわけだが、その赤ちゃんを日本に残る夫や母に任させてもらい、一人でこちらに来させてもらっている。
この特殊な状況と、それからオハイオでの息子とのほとんど孤独で閉鎖的かつ楽園的な滞在の日々を送るうちに、心ががらんどうになっていくこの感じ。
このあたりがあいまって

「なぜ人は、ここまでして『自分の子ども』を欲しいと願うのだろう?」

という疑問も出てくる。

誤解のないように書いておくけれど、私には現在2人の子どもがおり、授かった2人は、私の一番の宝物である。

そんな自分も含めて、また、子どもがいない人でも、人は一定の年齢になると「自分の子どもが欲しい」と思う人が多くいると思われる。
この心理、この感情っていったい何なのだろう。

私のような特殊な状況でなくとも、一般的に言って、
自分の子どもができると、大変なことがたくさん増える。
自分の時間も少なくなるし、子どものためのお金だって必要だ。

なんというか、プラスも大きいけれど、単純な効率という面でいえばマイナスだってあるのだ。


「生物学的に、本能的に、生物は子孫を残すものだから」
とか
「人は孤独では生きていけないから」
とか
「面倒事のマイナスより大きなプラスの感情をわが子はもたらしてくれるから」
とか
「わが子を産み育てることへの好奇心があるから」
とか、
まあよく言われる次元で話せば、こんな話はすぐに終わるものだろうし、実際どの理由も正しいのだと思う。



しかしこの疑問を捨てずにそのまま続けて考えてみると、結婚だって同じことである。
一人で生きているほうが楽なことだって多いのに、

「なぜ人は、わざわざ面倒の起きやすい『2人で生きていくこと』を望むのだろう?」

ということである。



自分一人だけの人生が満たされていれば、住む場所や結婚や子どもということに執着せずに生きていけるのかもしれない。
効率という面だけとれば、それが理想かもしれない。


それでも、自分を含め、ほとんどの人は、わざわざ面倒な場所に住み、わざわざ面倒な結婚をし、わざわざ面倒な子育てをする。
理由は何であれ、こういう「わざわざ面倒な」ことをするところに、人間らしさがあるんだろうなあと、思う。


それはたとえば、寒すぎるオハイオで、車に乗らず10分ほど歩いて息子と食べる夕飯を買いに行く、そのときに、氷点下の空気にさらされて顔の肌に感じる痛みだって、目に映る雪のようにきらきらした感情に変わってしまう、こんな幸福が凝縮された瞬間。
こういうとき、生きている、と思う。
あるいは、面倒なこともこなして乗り越えて、生きてゆける、と思う。
とても人間らしく。

夢記録その1

ここ最近、わが子が登場する夢を見たので、何かのために記録。
この後その2、その3が記されるのかは不明だが、一応「その1」と題することとする。


・夢1
息子と一緒にデルタ航空アメリカ行きの便に乗るために、螺旋階段を駆けのぼる。
デルタ航空のゲートが螺旋階段の25階にあるのだ。
ぜーはー言いながら駆け上る。
苦労して上って上に着いたら、電光掲示板には、私たちの便は明日だと表示されている。
そこで、はっと気付く。

私たちはパスポートその他あらゆる荷物をもってきていないのだ。

「飛行機が明日でよかった。荷物を取りに家に帰ろう」

私たちは螺旋階段を降り、道を逆に戻り、家路を行こうとする。

家までの道は、山の中の草木をかきわけてゆくような道なき道である。
私たちの背の高さほどもある草木をかきわけながら、なんとか広い山道まで出たが、迷ってしまったようだ。
そこに大きな平屋と、そこに住んでいるのであろう日本人のおじいさんとトルコ人の少年が現れる。

「お前、案内してやれ」
とおじいさんがトルコ人少年に指示する。
なぜ、トルコ人少年が私たちの家までの道を知っているのか、そのあたりは完全に不透明である。
しかしトルコ人少年の足取りは軽く、どんどん山道を行き、道はどんどん広くなる。
最後に山の広い高台に出た。
そこから、山のふもとの街が見えた。
車が行き来する細い道路、川、駅、そして家々。

「僕が案内するのはここまで。あれがあなたたちの街だよ」



・夢2
息子と気球状の物体に乗って、旅行をしている。
その気球状の乗り物の大きさは、多くて4人乗れる程度である。
ただし、その気球はふつうの気球ではない。
前方に、大画面がついている。
映画館のスクリーンというほどでもないが、それのミニチュア版のような形の画面である。
その大画面にバーチャルな景色が映し出され、まるでジェットコースターに乗りながら観光地をすごいスピードでめぐっている、そんな感覚になれるという代物だった。

今、画面では、アムステルダムの街路をこの気球ですごいスピードで進んでいた。
ふとiPhoneを使おうとすると、ない。
ない、ない、ない、と騒いでいると、気球内の棚か何かの上で、iPhoneらしきものが見つかった。
と思ったら、これは息子のiPod touchであった。

再び、わたしのiPhoneを探していると、今度は気球の床の上でiPhoneらしきものが見つかった。
と思ったら、またまた息子のiPod touchであった。
「さっきのは第3世代、これは第4世代」
と息子は言う。

さらに再び、今度は大画面前の操縦席のような場所にiPhoneらしきものが見つかった。
と思ったら、またまたまた息子のiPod touchであった。
「これは第5世代」
と息子は言う。

そこで私の目が覚める。
目が覚めた現実世界で、まずい、と焦った手つきで、iPhoneを枕元で探す。
iPhoneはもちろん何事もなかったようにそこにあり、わたしは胸を撫で下ろした。


・夢3
娘が初めて単語をしゃべった。
まだ生後2ヶ月だというのに「パパ」「ママ」と言う。
そして最後に自分自身を指差して、自分の名前を口にした。


・夢4
寝室で自分は寝て、娘は居間で寝ていた。
その時に見た夢。

私が起きて居間に行くと、娘が連れ去られていた…!
あわせてなぜか大きなソファもすっぽりなくなっていた。

と思うと、まだ自分は寝室で寝ている。
なんだ、夢か、と胸を撫で下ろし、再び居間に足を運ぶと、娘の姿はなく、ソファもない。

と思うと、まだ自分は寝室で寝ている。
なんだ、夢か、と半分胸を撫で下ろし、半分不思議な気持ちで、再び居間に足を運ぶと、娘の姿はなく、ソファもない。

と思うと、まだ自分は寝室で寝ている。
なんだ、夢か、と半分胸を撫で下ろし、半分不思議な気持ちで、再び居間に足を運ぶと、娘の姿はなく、ソファもない。

と思うと、まだ自分は寝室で寝ている。
なんだ、夢か、と半分胸を撫で下ろし、半分不思議な気持ちで、再び居間に足を運ぶと、娘の姿はなく、ソファもない。

と思うと、まだ自分は寝室で寝ている。
なんだ、夢か、と半分胸を撫で下ろし、半分不思議な気持ちで、再び居間に足を運ぶと、ようやくすやすや寝ている娘の姿とソファが目に入り、ようやく現実世界において生きた心地を取り戻した。