Modern Life Is Rubbish

美しいもの。本、映画、音楽、そしてそのほか雑文

デーモンアルバーンとヘルマンヘッセ

私が大好きなBlurというバンドのフロントマン、デーモンアルバーンはヘルマンヘッセが好きで影響を受けたことを公言している。
私自身が読んだヘッセの作品は「デミアン」「シッダールタ」「荒野のおおかみ」「メルヒェン(短編集)」の4作。
このうち「メルヒェン(短編集)」を除く3作について、「デーモンアルバーンとヘルマンヘッセ」の関連性ついて印象に残っていることを簡単に記録しておこうと思う。

*「メルヒェン(短編集)」は収録されている「別な星の奇妙なたより」という短編のタイトルがそのままBlurの曲タイトルに採用にされている、ということ以外にはデーモンとヘッセという観点での印象はない。

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*若き日のデーモンです

デミアン

まず、「デミアン」という小説。
シンクレールという名の主人公の少年が、少しだけ年上のデミアンという少年と友人関係になり、デミアンに憧れたり導かれたりしながら、真の自己を見出そうと追及しながら成長していく物語。

なのだが、このデミアンという少年が、到底子供とは思えない超越した思想(世界の善悪や聖俗などの明暗両面に目を向けなければいけない、人類が生まれ変わるための世界の崩壊など)と自信と存在感をもっていて、不思議な魅力を放ちまくり。
主人公シンクレールも、10代を過ごす間にデミアンと離れたり再会したりを繰り返しながら、どこかしらデミアンを崇め、またデミアンに執着してしまっている様子がみられる。

このデミアンに、なんとなく自分の中で既に超越した自信満々な存在であったデーモンアルバーンが重なってしまった(そんなマニアックな読み方するのは私だけかもしれないが)。
しかも「デミアン」の名は「Demon(デーモン。悪霊に取り憑かれたもの)」が由来しているとか、あるいは「Demon」の別バージョンである、「Demon」が語源である、とかいう情報もある。
デーモンアルバーンの名はスペルは「Damon」であり、もちろん決して「Demon」ではないが、それにしても、デミアンとデーモン、名前の語感は似ている。またデーモンアルバーンはこの名前のせい(Demonに似ている)で幼い頃からかわれていたというエピソードもある。
そんな諸々が重なって、もしかしたらデーモン自身もデミアンを読んだときデミアンをどことなく自分に重ねたりしたのではないかと思ったり思わなかったり。

あと、Blurのバンド活動休止中に、メンバーのアレックスがBlurについての本を書いた。
その本で、アレックスはデーモンのことを
「彼は演劇が好きで、ヘルマンヘッセが好きだった。
 スペインを愛し、サンダルを履き、月の満ち欠けを注意深く見守っていた。
 彼は、母さんは奇術ができると言った」
と書いている。
ここの記述自体も、ヘッセの「デミアン」とすごく印象がかぶるのだ。
たぶん「デミアン」にはサンダルを履くとかいう記述はなかったはずだ。ただ「デミアン」ではデミアンの母も途中から不思議な役割として登場する。そのあたりが印象かぶりの理由なのだろうか。

「シッダールタ」と「荒野のおおかみ

そしてこの2作。この2作は書かれた時期も近く、テーマが似ている。
デーモンは1993年のインタビューで、ヘッセの作品はすべて好きだが、特にキーとなる作品はこの2作「シッダールタ」と「荒野のおおかみ」と答えている。
この2作のテーマは私が思うに
「常に求める人、渇く人」
「どうやってもこの俗世では満足できない人間(作品中では『1つ次元を多くもっている人間』とも表現されている)」
が、この世の俗世的価値観に絶望し、時に自殺も考えながらも、この世でどう生きていくべきか、ということである。
そしてそこにヘッセは結論めいた答えを用意しており、それはものすごく簡単にいってしまうと
「一瞬一瞬この世界は完全であるととらえ目の前の世界を愛すること」
「自分を真剣にとらえすぎず、ユーモアをもって笑って生きること(自殺という選択はしないこと)」
という結論(答え)である。特に1つ目の答えは仏教への傾倒を感じる。

こう簡単に書いてしまうと身も蓋もないのだが、こうした「結論」を持ってしまっているのがヘッセの作風の特徴であるとも私個人的には思う。
世に言う小説のほとんどは、「結末」はあるが「結論」は明確には書かれていないと思う。「結論」は読者の「解釈」にゆだねられており、読者は「結局こういう意味だったのかな」などとその「解釈」を楽しんだりする。
しかしヘッセの小説には「人生は●●である、しかし△△という風に生きるべきである」というような「結論」が明確に書かれている。と、私は思う。その結論を書きたいがためのストーリーという感じがあり、あまり登場人物にリアリティがない。ある意味、童話絵本のような、そして思想・哲学系論文のような、不思議な手触りがある。読んでいる間、小説を読んで物語に感情移入している、という感覚はあまりない。

話を戻して、デーモンとヘッセの話である。
デーモンも俗物社会への絶望というベースがありつつも、それでもこの現実社会で地に足をつけて楽しんで生きていくしかないという強さを体現した生き方をしているような気がして、非常にヘッセ作品の結論と符合するな、と勝手に私は思っている。

ヘッセの作品の主人公が自殺を考えてたり、俗世的・享楽的価値観(清潔に花を飾るような市民的秩序的生活、意味がない相手にも愛想よく振舞うこと、功利主義、賢く振舞う虚栄、など)に嫌気がさしたりしているのだが、そうした描写にデーモンもいちいち共感したのかな、といちいち胸をいっぱいにしながら私はこの2作を読んだ。

最後に。「シッダールタ」というタイトルにも表れているが、ヘッセのこの2作には東洋思想の受容、傾倒がみられる。ヘッセはキリスト教の神学校に入れられたが逃げ出しその後作家になりこうした作品を書いた。デーモンもキリスト教圏で育ちながらも多文化を受容しよう、あるいは多文化を知りたいというスタイルや音楽性がみられ、このあたりもヘッセと符合する。デーモンはヘッセのことを「彼はいつも精神性や超俗性を定義しようと試みていたが、同時にあらゆる性や教義から離れてもいた。彼はただ彼自身としてそこにいた。彼は初めての汎神論者の1人だよ」と語っている。

ミラン・クンデラ「存在の耐えられない軽さ」

圧倒的傑作。チェコスロバキアの自由化を危惧したソ連による占領・占領後の監視社会を背景にした男女4人の人生。
言葉・思念・哲学・政治・文化の洪水に浸る幸福な読書体験でした。
読書中、左脳と右脳の両方が刺激される感覚がしました。


ストーリー

ドンファンで医師の男、田舎娘、奔放な女性画家、真面目な学者の男。
4者4様の、人との関わり方のスタンス、価値観や哲学、その個人差等が要所要所で語られ、非常に読み応えがあります。
ドンファンと田舎娘の愛の結末は。4人は政治悪とどう向き合うのか。

主題

恋愛中心というよりは、4人の男女の人間同士の関わり合いや政治との向き合い方含む人生そのものを物語として進めながら
「軽さと重さはどちらが肯定的なものか」
キッチュ(ある集団が共有する、表面的には立派な、しかし実際は俗悪な、理想)なものへの嫌悪、またキッチュ全体主義政治と結びついた時にキッチュを侵害する事物全てが除去されてゆく」
という2つの主題を繰り返し描き、読後は政治悪が歴史上軽く扱われることへの著者の怒りのようなものが強く印象に残る作品。

文体

表現がふわっと雰囲気に頼る所なく、全てが的確。
フィッツジェラルド的甘美さやサリンジャー的隙間の美しさはなく、硬質な考察のような、時に論文のような文章。
だが刺さる。但し右脳だけでなく左脳右脳両方に刺さり、読んでると何となくピアノ弾く時のような感覚がしました。

作風

哲学的考察と、登場人物達の物語と、両方を織り交ぜながら小説は進みます。
以下、その哲学的で魅力的な書出しを引用しておきます。
永劫回帰という考えは秘密に包まれていて、ニーチェはその考えで自分以外の哲学者を困惑させた。
 我々が既に一度経験したことが何もかももう一度繰り返され、そしてその繰り返しがさらに際限なく繰り返されるであろうと考えるなんて!
 いったいこの狂った神話は何を言おうとしているのであろうか?」

佐藤泰志「黄金の服」(「オーバー・フェンス」含む短編集)

佐藤泰志の短編集「黄金の服」(「オーバー・フェンス」を含む)のあらすじと感想です。
佐藤泰志の小説を読んだのは初めてだったのですが、とてもよかったです。

イントロダクション(本の背表紙より)

青春の閉塞感と破壊衝動を鮮やかに描く短編集。
今回映画化された「オーバー・フェンス」は、作者が故郷函館で職業訓練校に通った体験を元にした作品。

佐藤泰志の文章から洩れる「光」

映画「オーバー・フェンス」が素晴らしかったので、原作を読んでみたら、原作のほうがもっとすごかった、というお話です。

「黄金の服」というこの短編集には、表題作の「黄金の服」、映画化された「オーバー・フェンス」、そして「撃つ夏」の計3作品が収録されています。

中でも「オーバー・フェンス」と「黄金の服」は作者の独特な作風である、暗く地を這うようでありながらそこに澄んだ風や輝く光がみえるような、そんな美しさに溢れている作品でした。
(両作品とも芥川賞候補になりました)

個人的に、一番よかった小説は「オーバー・フェンス」です。

私自身は外国文学を好みがちで、日本人作家では夏目漱石村上春樹だけが別格に好きです。その他の戦後の日本人作家もたくさん読みましたが、それほど好きになれる作家はいませんでした。
しかし、この佐藤泰志の作品には心を奪われました。
なんというか、梶井基次郎檸檬」やサリンジャーの短編小説を読んだときの感覚に近い気がしました。それが一体なんなのか、正確に表現することが難しいのですが、小説や文章から木洩れ日のように見える「光」と、それからまさに「ひりつくような痛みや脆さ」の感覚だと思います。


オーバー・フェンス

あらすじ。

妻に見限られ故郷に戻った男が、溌剌と生きることを諦めて親家族とも会わずに飲みにも出かけずにいるところへ、職業訓練校の近からず遠からずの距離感の仲間たちとソフトボール大会に出ることや、ある女性「さとし」との出会いがあり。
男は、溌剌と生きる希望を見出せるのか?

平凡といえば平凡なあらすじ。

それなのに、淡々としたなかに光がみえる文章と、文章の絶妙なテンポ、あとはその語りの途中途中に少しずつはさまってくる辛い過去のせつなさや諦めや絶望の心情の描き方(基本的には前の結婚がうまくいかなくなったことの追憶。離れて暮らす娘のベビー靴が本来は自分の玄関にあるはずなんだという文章。夫婦がうまくいかなくなったときの出来事の追憶などなど)が、もう、素晴らしい。
バッターボックスのシーンで急に入ってくる一文「もうはっきりしていることは、僕自身二度と娘の顔をみることはないということだった」。このあたりの大事な一文の入れ方、文章のテンポが、主人公の思考回路や感情の昂りを読み手にも感情移入させることに一役買っていると思う。

また、同じくバッターボックスでの「ここまで来てどうもこうもあるか」という主人公の心の中のせりふ、これが、自分の結婚の状況、函館にもどってきた職業訓練校での自分の人生全般の状況、ソフトボール大会の試合の状況、すべてにかかっているところあたりもうまい。

さとしに惹かれ変わっていった点も、説得力がある。さとしには最近中絶したという出来事があり傷を負っているということで、自分とのさとしの共通点がある。また、さとしが彼自身をあるがままに理解したり認めてくれたりしている様子をさりげないせりふなどで見せている。


黄金の服

あらすじ。

この小説は、あらすじはあってないようなものだと思う。
20代の男女入り混じりの5人のグループが、毎日泳いで、飲んでを繰り返す夏の日。恋愛事件や数日間の旅行のようなものもある。そんな中、主人公たちの「何者にもなれない焦り」や「生きていながら死んでいるも同然という諦念の客観視」などの心情が描かれていく。

タイトルの「黄金の服」はスペインのロルカという詩人の詩の一節で「僕らは共に黄金の服を着た」というところからとられている。小説の中で登場人物たちの交わす会話で、この詩の一節が言及され、「若い人間が、ひとつの希望や目的を共有できるかということ」という解釈として、会話に登場する。
こういうタイトルのつけ方、好きだ。小説の主題を表す他者の芸術作品のタイトルをつける。そしてそれをちらりと小説の中に登場させる。



さいごに

単行本の「あとがき」のなかに、作者による以下の一文がある。

「僕にいえることは、本当に書きたいこと、書けることのみを、僕自身の方法で表現したいという、単純なことだけだ。」

1990年に41歳で自らの命を絶ったこの作家が、1989年に書いた、このシンプルで、嘘も飾りもない、一文。
胸がぎゅっと締め付けられた。

村上春樹「騎士団長殺し」

村上春樹騎士団長殺し」のあらすじと感想です。

あらすじ(本の背表紙より):
その年の五月から翌年の初めにかけて、私は狭い谷間の入り口近くの、山の上に住んでいた。夏には谷の奥の方でひっきりなしに雨が降ったが、谷の外側はだいたい晴れていた・・・・・それは孤独で静謐な日々であるはずだった。 騎士団長が顕れるまでは。


ま、最初はネタバレしないよう、この程度のあらすじで。
とにかく孤独な男が騎士団長に出会ってあれこれ起こる。というお話です。
もう少し設定だけ補足すると、「妻に捨てられた男が、様々な個性的な人たちに出会い、その人たちに巻き込まれる形で不思議な世界で冒険をしていく」というお話です。

ネタバレしてよい方は、この文章の後半の「ネタバレ有り感想」の「あらすじ」をご覧ください。

で、感想ですが
最初にネタバレ無し感想
途中からネタバレ有り感想を書きます。

■まず、ネタバレ無しの感想から

まずはネタバレの無いレベルの感想です。

ひとこと感想

途中まですごくおもしろかったです。
冒頭から、春樹ワールド全開で、最近の作品が変わってきたなあと思っている長年のファンの方は、おそらく「春樹はコレコレ!」と膝をうつような描写も多いことでしょう。
上巻を読み終えたところでは、いろんな感情移入や自分のセンチメンタルもあり(飛行機の中で浸って読んだこともあり)、私は軽く茫然と涙を流していました。
ただ、下巻の途中から、物語の収束のさせ方が、少し雑になったかなと。

あとは、個人的にかもしれませんが、本作は、何といっても「サブ主人公」なるアノ登場人物の魅力!を楽しめるかどうかも大きいかなと思いました。この「サブ主人公」は、フィッツジェラルド華麗なるギャツビー」のギャツビーと、チャンドラー「ロング・グッドバイ」のレノックスを想起させると私は思いました。その詳細は、「ネタバレ有り」のほうで後述。

特別な作家

村上春樹は私にとって特別な作家です。
中学生の頃、学校の先生に教えてもらって初めて読み、すぐにその世界観と文体の虜になり、解読本などまで買って読みました。
その前から、海外文学などは家に置いてあるものをたらたらとは読んでいたものの、小説というものにどっぷりハマるきっかけになったのも、おそらくはこの春樹体験が原点です。以降全作品読んでいます。
そんな「私にとって特別な」作家、村上春樹の2017年新作。

「話の筋」ではなく「文体と世界観」

まず一つだけ言いたいこと。
「今回の」(※)村上春樹の作品は、優れたストーリー展開の作品だと思って読むものではない、ということです。
つまり「話の筋」を追うのではなく、その文体や世界観をただひたすら楽しむためのものとして、すごく上質に作られたものだ、と割り切って捉えた方がいい。まるでカフェバーで雰囲気作りのためにただ流しっぱなしにしてある洒落た映画のように。そうしたカフェバーの映画について、客は物語の筋など追ってはいないのと同様に、「騎士団長殺し」ついても、物語の筋を追うという楽しみ方よりは、まるで音楽や温泉に身を浸すようにその文章に身を浸していく楽しみ方をおすすめします。
「話の筋」を追った場合、「もっとおもしろい本はいくらでもあるじゃん」「もっと登場人物に感情移入できる本はいくらでとあるじゃん」と思われる可能性があります。

(※)「今回の」村上春樹の作品は、と限定したのは、これまでの春樹作品全てが「優れたストーリー展開ではない」とはいいきれないからです。おそらく、「騎士団長殺し」よりストーリーとして優れ、おもしろい展開、収束をしている春樹作品はあったと思います。

「意味解釈」

そしてもう一つの春樹作品の楽しみ方、「意味解釈」。これは「世界観に身を浸す」ためには大なり小なり必要になってくることかもしれませんが、特に春樹作品全般において、「意味解釈」を楽しむのが好きなファンも多くいるようです。過去の作品については解釈本も出ているくらいですから。つまり、たとえば「あの緑色の砂は何を意味するのか?」とか「あの白い顔の男は何を象徴しているのか?」などです。
今回の「騎士団長殺し」も「意味解釈」どころは満載となっており、インターネット上でも、読者のいろいろな「意味解釈」が飛び交っています。多くのファンが「意味解釈」を楽しんでいる模様なので、きっと「意味解釈」にハマる方はいると思います。
私ももちろん「意味解釈」をしながら読みました。というか、メタファーが多すぎて「意味解釈」しながらでないと読めない。ただ、私個人の読み方が変わってきたのでしょう、今回は「意味解釈」よりも「文体・世界観」と「ストーリーテリング(話の筋やキャラへの感情移入)」に重きを置いて読んでいました(そして後者は今回の作品の土俵ではないと感じました)。

以上がネタバレ無しの感想です。


■以降は、ネタバレ有り感想


以下はネタバレもあるので、まだ読んでない人は読まないでください。


多くの春樹ファンが関心のある「意味解釈」中心の感想とは異なり、私は「物語の筋書き」や「キャラクターへの感情移入」を中心に感想を書いています。

あらすじ(ネタバレ有り)

あらすじは、妻に捨てられた男が、様々な個性的な人たちに出会い、その人たちに巻き込まれる形で不思議な世界で冒険をし、冒険を乗り越えた結果、妻とよりを戻す、というものです。
もはや春樹作品の典型といってもよいパターンです(最後の妻とよりを戻す、というところはこれまでの作品にはおそらくなかったが)。
様々な謎が物語途中まで配置され、「途中までは」とてもおもしろかったと思います。もちろん「文体・世界観」に及んでは、いつも通り、「最後まで」素晴らしかったと思います。この小説を手に、お風呂や寝床に入ったり、甘いものやコーヒーをいただいたり、そんなことをしながら、文体に浸り、至福の時間を過ごせました。ありがとうございました。

物語の収束

それで今回の作品ではなぜストーリーテリングが優れていないと私は思ったか。
まず物語の収束のさせ方が雑かなと。
下巻の真ん中あたりから、不思議な世界(イデアの世界)を冒険し、地下世界のような洞窟のような場所の「狭い穴」をも体を張ってエイ!とくぐり越える。これが意味するところは(「意味解釈」がないと読めないというのはこういうところですが)、おそらく「自身の闇と向き合い乗り越える」ということなのでしょうが、これを機にすべてが解決、少女も救出、妻ともよりを戻す、というのがちょっとイージーすぎるし、説得力がない。
そして主人公以外の人間についての「どうなるんだろう?」「何が隠されているのだろう?」という物語の謎があまり解かれていない感もありました。免色渉の少女との物語の進展や、冒頭でインパクトを残す「顔のない男」が「顔がない」ことの必然性、「秋川笙子の秋川まりえ」の関係が「不思議だ」という伏線の回収、秋川笙子が読んでいた本は結局何だったのか、などなど。さすがに雨田具彦や白いスバル・フォレスターの男については大方謎は解かれていたと思いますが。

主人公に感情移入できるか

次に、これまでの春樹作品よりも、主人公にあまり感情移入できなかった点も、物語としてあまり楽しめなかった点です。
主人公がなぜ妻に捨てられたのかわからないし、主人公は孤独で悲しんでるとはいえ境遇に恵まれていて孤独を楽しんでいる雰囲気すらある。
春樹作品の多くの主人公はたしかに、淡々とした語り口で、背景も多くを持っていない人間が多いかもしれません。それでも私がこれまでの作品で主人公に共感できていたのは、その「孤独さ」と「自分はこれでいいのだろうかという精神的幼稚さや焦燥感のようなもの」に依る所が大きいと思っています。
今回の主人公からは、そういったところが感じられず、あくまでよくできた、達観した、ある程度自分に自信をもった大人、といった印象を受けました。人間味を感じない、という言い方もできます。
最後に妻とよりが戻るところも、イマイチ「なぜ」よりが戻るのか、判然としない。実際の現実とはそんなものなのでしょうが、これは物語なので、妻側が主人公をなぜ受け入れるのか、理路整然とした理由はいらないにせよ、妻側のきっかけみたいなものが少しは描かれていた方が説得力があったのでは、と思いました。

サブ主人公、免色渉という人物

一方、サブ主人公ともいえる免色渉というスーパーキャラ。彼は過去作品でいう「綿谷ノボル」や「永沢さん」のように、現実社会の生活における完璧なる能力を持った者です。
今回の「騎士団長殺し」では、私は最も感情移入できる人物がこの免色渉でした。
彼はこれまでの「綿谷ノボル」などとは異なり、「欠陥と(多少の)善良性」を備えているキャラなのです。
もう少し付け加えると、彼のキャラクターは、明らかに(少なくとも、私には)、ギャツビーとレノックスがモデルになっていると思われるのです。つまり、フィッツジェラルド華麗なるギャツビー」のギャツビーと、チャンドラー「ロング・グッドバイ」のレノックスです。
ギャツビーは、むかし大恋愛をした女性を忘れられず、ただ立派な男としてその女性と再会したい、ただそれだけのためにストイックを重ねて立身出世し富裕層となり湾を挟んだ彼女の屋敷の向かいに自分の屋敷を構えます。ストイックなのに、その女性の前に出るとぎこちなくなる、などの特徴も含め、免色渉は限りなくギャツビーと重なります(免色渉の場合はその対象が「自分の娘であるかもしれない少女」であるだけで、設定が類似)。
レノックスは外見の「白すぎる美しい白髪」が全く同じです。レノックスに関しては共通点はおそらくこれだけなのですが、レノックスと重ねて読んでしまう読者からすると、この白髪だけで、レノックスのもつセンチメンタルが免色渉からも洩れて見えてしまうのです。
そんなわけで、一番感情移入できた人物、免色渉の物語をもう少し最後まで濃淡をつけてきちんと描いてくれていたら、もっとおもしろかったのにな、と思いました。免色渉と「自分の娘であるかもしれない少女」との関係は、結局ほとんど何の進退もなく、小説は終わってしまうところが非常に残念でした。実際の現実ではこんなものなのかもしれない(何も起こらない)。それでもこれは小説なのだから、免色渉が策を駆使してもっと少女に近づくが毛嫌いされる、とか、逆に少女が何かをきっかけに免色渉に心を少しずつ開く、とか、何かもう少しドラマがあればなあと。

「子供」の描き方

最後に、おそらく春樹作品では数少ないモチーフとして、主人公に「我が子」ができます。これもラストシーンとして雑かなと思ったところです。要は、下巻後半が雑なんです!
この「我が子」が正確にいえば「本当に自分の遺伝子をもつ我が子なのか、よその男の遺伝子をもつ我が子なのか、わからないが、とにかく戸籍的、形的には我が子」というものです。
そんな複雑な状況なら、現実では大きな葛藤が起こると思うんです、感情的な。そこが非常にさらっと描かれていて、主人公は最初から葛藤もなく「これが本当の自分の子供でも、よその男の子供でも、どちらでもたいしたことはない」といったスタンスなのです。そこを主人公の「成長」の象徴として描きたかったのかもしれませんが、その「さらっとさ」に非常に違和感を覚えました。

なんだかんだ言って

春樹作品はどれでも好きです。なぜなら冒頭に書いたように、彼独自の文体と世界観の魅力が大きすぎるからです。なのでおそらく私は一生、春樹作品を読み続けるでしょう、とびっきり美味しいワインを飲んだり、素晴らしい香りの入浴剤をお風呂で楽しむのと同じような感覚で。

「オーバー・フェンス」

★★★★★(5点中5点)

あらすじ:
家庭をかえりみなかった男・白岩は、妻に見限られ、東京から故郷の函館に戻りつつも実家には顔を出さず、職業訓練校に通いながら失業保険で暮らしていた。
訓練校とアパートの往復、2本の缶ビールとコンビニ弁当の惰性の日々。
白岩は、なんの楽しみもなく、ただ働いて死ぬだけ、そう思っていた。
ある日、同じ職業訓練校に通う仲間の代島にキャバクラへ連れて行かれ、そこで鳥の動きを真似る風変りな若いホステスと出会う―。名前は聡(さとし)。
「名前で苦労したけど親のこと悪く言わないで、頭悪いだけだから」
そんな風に話す、どこか危うさを持つ美しい聡に、白岩は急速に強く惹かれていくが…
(filmarksより)

製作年・製作国:2016年・日本
監督:山下敦弘
原作:佐藤泰志
キャスト:オダギリジョー蒼井優松田翔太北村有起哉満島真之介、他


「普通で退屈な男」と「エキセントリックな女」の交流と救済

とにかく暗く重たそうだったので、観るのを躊躇していた作品。
蒼井優が好きなので、勇気を出してようやく観てみた。

すると。
久しぶりに「映画を観た」感覚に陥らせてくれた作品だった。
印象と余韻とがひどく、数日間もの間(おおよそ4日間ほど)続いた。

印象的な美しい音楽(特に予告編やエンドロールで流れるテーマ曲)。
暗く閉塞感のある地味でしがない低所得世界(失業男とキャバクラ女の話)の場末感。
そしてその暗い雰囲気と対照的な空や海の水色の明るくさわやかな色彩。

そうした印象的な映画的「要素」以上に、私の心をわしづかみにしたのは「普通で穏やかで退屈な男」と「エキセントリック(と周囲から思われがちな)女」の交流、そしてお互いがお互いに救済される、その描写だった。
端的にいうと、少なからずの「共感」が自分にはあった。
過去の自分の経験と重ね合わせていた部分も部分的にはあるだろう。

女は鳥の真似をしたり、ヒステリックに怒ったり、キャバクラの中で急に一人だけダンスを踊り始めたり、機嫌がよいときは誰よりもかわいらしい無邪気な笑顔を見せるが、機嫌が悪くなると急に相手を突き放す(「帰って」とか「一人でタクシーで帰って」とか逃げ出すとか)。まあとにかく感情の起伏と相手への迷惑が甚だしい、独特の魅力があるかもしれないがかなりめんどくさい女である。
加えて、まあ「誰とでも寝るらしい」という真偽のほどはわからない人物設定でもある。

一方、男は穏やかな性格で、他人との対立を好まず、愛想笑いやどっちつかずの意見が得意な、表面的にはいわゆる「普通にしている」男である。
内面的には、彼は妻子との別離を経験したばかりで
「何の楽しみもない。ただ働いて死ぬだけ」
と人生を悲観的に構えている部分がある。

男と女は惹かれ合ってゆく。
女は男を突き放しては男のもとに戻る、を繰り返しながら。
彼らはおそらくお互いが求めていたものをお互いが与えあうことができ、双方に救済し救済され合う関係に見えた。
自分も似たような経験があり、共感した。

女は
「今日から自分が変われるかもしれないって思ったのに。もう死んだみたいに生きなくてもいいって思ったのに」
と言う。
(このセリフは予告編でも出てくる)
女はめちゃくちゃな生き方をしながらも、ほとんど諦めながらも、ただ一人の向き合ってくれる人、自分を大切にしてくれる人を探していたのだ。
「普通に」愛し合える相手を。

男は
人生の楽しさや真剣さを諦めつつも、それでもそうした人生の彩りを探していたのだ。

こうした主人公の女と男を好きになれるか、あるいは共感できるか、で、この映画の好き嫌いはかなり分かれるだろうと思う。

だけどもしもこの男女にたいして共感しなかった人であっても、この作品の蒼井優オダギリジョーの恋に満ちた「良い表情」をみるだけで、恋を楽しみたいという気持ちにはなるかもしれないなあとも思う。



個人的名シーン2か所

最高の名シーンは、
キャバクラで聡(蒼井優)が音楽にあわせて踊りだし、最初は白岩(オダギリジョー)は彼女と一緒に踊ることについて
「いいよ」といつもの「普通の人」トーンで遠慮がちに断るのだが、その後何かを振り切ったように白岩が聡の調子にあわせて踊り始める場面。
ふわっと聡を抱きしめるその白岩の優しい抱きしめ方、その一瞬びっくりすると同時に安堵する聡の表情、もうこれがたまらなく泣けます。
何回観ても泣けました。

この瞬間に、きっと長年の間むちゃくちゃな生き方をしながらも、彼女が求めていた「普通に」愛し合える相手、自分を大切にしてくれる人が見つかったんだなあって思えて、自分のことのように感動して泣いてしまいます。

このシーンは踊り始める直前の代島(松田翔太)との3人の会話含めて、最高の形で成り立っています。
代島は聡を「ヤリマン」と称して、白岩にはあの女はやめとけと言い続けてるわけです。
そんな中、二人はそれを振り切って、精神的に結ばれます。

もう一つの名シーン。
白岩が若い女の子がいる飲みの席で
静かにブチ切れるシーン。
「君ら笑ってるけど、何にも面白いこと起きてないよ」
「すぐに面白いことなんてなくなるからさ」
「ただ生きてるだけ。何の楽しいこともなくただ働いて死ぬだけ」
主人公、そして原作者の人生観が垣間見られるシーンです。



恋愛以外のテーマは「ここから抜け出して変わること」

そういうわけで、2人の恋と救済が中心に描かれますが、恋愛以外のテーマ、もっというと恋愛も包含して結局トータル何をテーマにしてるかというと。

ここから抜け出して変わること。

だと思います。

職業訓練校、キャバクラ…。
みんな今は一時的な居場所であって、この後もっと光輝く場所にいけると。
諦めも持ちながら、それでも希望も持っている。
主人公の白岩以外の男性キャラクターはほとんどが職業訓練校の同じクラスの面々です。彼らの諦めや今いる場所への苛立ち、そうしたネガティブな感情と、希望とが、同居しているさまが、この作品の根底を流れる空気のように存在しています。


ベティ・ブルーを少しだけ思い出す

余談ですが、観終わった後、なぜか昔観たフランス映画「ベティ・ブルー」の印象的な音楽が頭の中を流れ始めました。

もちろん「ベティ・ブルー」とは全然違う話だし作品としても全然違う。
「ベティ・ブルー」はもっと映像と音楽の美しさが際立っていたし、「ベティ・ブルー」の女はもうこれはクレイジーすぎて異常者レベルで、見た目も個人的にはかわいくないと思う(蒼井優演じる聡はかわいい)。

ただ、なんとなく思い出しちゃいました、「ベティ・ブルー」。
おそらくエキセントリックな女と穏やかな男という構図が似ていたんでしょうね。

蒼井優オダギリジョーの名演技

最後に蒼井優オダギリジョーの名演技にも触れておきます。

もう、もともと蒼井優見たさにこの映画をみたわけですが、その期待を軽く超えてくる蒼井優の演技でした。
かわいいときは最高にかわいいし(特に笑顔やはしゃぎ方などポジティブな感情のとき)、めんどくさいときは最悪にめんどくさい(ヒステリックな部分)。
もう聡が乗り移ってるとしか思えない。
加えて、彼女はバレエを長年やっていたため、線の細い体の姿勢や身のこなしが本当にきれいで。

一方のオダギリジョーも、抑えた演技が光っていました。
個人的に声やしゃべり方が優しく色気があって、素敵でした。

そのほかにも脇を固める役者さんたち、松田翔太北村有起哉、カツマタさん役のおじいさんなど皆さん素晴らしかったです。

歌詞和訳 Blur「Battery In Your Leg」

前の記事で登場したBlurの「Battery In Your Leg」の歌詞の和訳を自分なりに作ってみました。

この曲は、前記事にも書きましたが、バンドメンバーの二人の天才、デーモンとグレアムの悲しく美しく、しかし当時は不可避だった「別れ」に対するデーモンの思いがそのまま書かれています(グレアムがバンドを離脱する頃に作られた曲)。
二人は11歳12歳からの幼馴染で、その後一緒にバンドを組み、お互いの才能と性格が全く違うという点で相互にほとんど完璧に近い形で補完しあっていた。そんな関係が崩壊するさまを、静謐と激しさが同居した音楽で彩った曲です。

曲動画はこちら。

歌詞と和訳です。()内は意訳。

This is a ballad for the good times
So put a battery in your leg
Put a rock beat over anything
Get it stuck there in your head
You can be with me
これは良き時代におくるバラード
だから君の脚に電池を入れて(一緒に前に進もうよ)
何にでもいいからロックビートを入れて
そしてそれを君の頭の中にちゃんと留めておくんだよ
僕と一緒にいてもいいんだよ

I got nothing to rely on
I've broken every bone
Everybody's stopped believing
But you know you're not alone
You can be with me
よりかかるものなんて僕には(もう)何もない
全部の骨が粉々に砕けてしまったんだ
みんな、信じるってことをやめてしまったね
だけど君はひとりじゃないってこと、わかってるだろ
僕と一緒にいてもいいんだよ

This is a ballad for the good times
And all the dignity we had
Don't get het up on the evil things
You ain't coming back
You can be with me
If you want to be
You can be with me....
これは良き時代におくるバラード
そして僕らがもっていた、人としての気高き尊厳のようなものにおくる(バラード)
悪なる事物に熱をあげないで
君は戻ってこないのかな
僕と一緒にいてもいいんだよ
君がそうしたいなら
僕と一緒にいてもいいんだよ


歌詞はここまでです。
泣けます。泣きます…!
余談ですが、この曲をグレアム参加でライブでメンバー4人で演奏している動画はほとんど見つけられません。数がとても少ない。
こんなにも濃いグレアムへの想いを歌詞にしたデーモンが、この曲をグレアムがステージ上で隣にいる場面でライブで歌うというのは、それこそどんな思いなんだろうと想像してしまうわけです。なのでとても観てみたいのですが、ほんとに少ししかない。きっと、恥ずかしかったり、当時のお互いのつらい悲しい気持ちだったりがよみがえってきたり、するのでしょうか…

フィッツジェラルド「夜はやさし」と、Blur「Tender」

フィッツジェラルド
夜はやさし
原題“Tender is the Night”



14時間のロングフライトの飛行機の中で、一気に読んでしまった本。
想像した以上に、自分にとって大切な、記憶に残る小説になってしまった。

この小説は、ものすごく不完全な二人の人間のものすごく濃密で、ものすごく繊細な、不思議な依存関係と絆を描いている。

主人公の二人の男女は、表面的には完璧に魅力的な人間。美男美女、裕福で賢く、性格も魅力的な二人。
そのきらびやかな表面の裏は、えげつないもので構成されているのだった。

近すぎる距離がもたらす、憎さと愛情。
そしてその関係により壊れていく男。



この小説には「オリジナル版」と「改訂版」がある。
現時点で日本語で読めるのは
・オリジナル版: ホーム社集英社の森慎一郎氏訳
・改訂版   : 角川文庫の谷口陸男氏訳
の2つ。

私が読んだのは「オリジナル版」だけである。が、様々な情報、及び「オリジナル版」を読んだ感想として、
おそらく「オリジナル版」の方が、より愉しい読書時間を過ごせるのではないかと思う。

オリジナル版と改訂版は、時系列の順序構成が異なる。

・オリジナル版:
第一巻 ローズマリーとの出会い、パーティーざんまいのきらびやかな世界
第二巻 主人公男女二人の「過去」、そこから第一巻時点の時系列まで進み、その後の二人
第三巻 男の崩壊の過程

・改訂版
第一巻 主人公男女二人の過去
第二巻 ローズマリーとの出会い、パーティーざんまいのきらびやかな世界
第三巻から第五巻 その後の二人、男の崩壊の過程

つまり、オリジナル版では、現在→過去→現在と進んでいくのに対し
改訂版では、過去→現在という、時系列がすっきりした形で進んでいくのだ。

オリジナル版での第一巻は謎めいている。何かが起こりそうで何かの秘密がある。描写はきらきらしていて表面的である。だから最初に読んだとき、第一巻はどうしても急いで読んでしまい、斜め読みに近い形で読んでしまった。
早くその謎、秘密を知りたいのだ。

そしてその後の第二巻(過去)、第三巻は、うって変わって、描写が濃密。表面的ではなく、あくまで内面や人物の関係性の描写の濃さ。第一巻の表面的さと真逆で、そのコントラストがとてもおもしろい、そして第二巻以降は読む側はまさにむさぼるように読んでしまうのだ。

例えば第二巻から、ある印象的な文章を引用してみる。

「これほど美しい塔なのに、自力ではまっすぐ立っていられず、ただぶら下がっているだけ、
 この自分にぶら下がっているだけだとは。
 ある点まではそれでもかまわない。
 男とはそのためのものだ。
 梁となり桁となり、思考と対数をつかさどる。
 だがどういうわけか、ディックとニコルは、正反対のものが相互に補い合うという関係ではなく、
 同等なものとして一つになってしまった。彼女はディックでもある。
 骨の髄の渇きのように、彼の一部になっている。」

このえげつなさ、そして美しさ、描写の繊細さ。

一言で言うと、この本は無駄も多いし、描写も緻密すぎて気詰まりする読者もいるかもしれない。
フィッツジェラルドの代表作「グレート・ギャツビー」と比べてもなんというか、構成が安定していない。
だけれどその不安定さ、未完成さ、無駄も含めて、筆者の魂を感じる、フィッツジェラルドの最高傑作なのではないか、そんな気がする。



最後に、UKロックバンド、Blurの「Tender」との関係を記してみようと思う。

フィッツジェラルドは好きで、ほとんどの作品を読んでいたので、この小説もいつか読もうと思っていた。
それ以外にこの小説を読んだきっかけがある。
ここ数年でハマったバンド、Blurがこの小説タイトルを引用している曲を作っていることだった。
その曲は「Tender」というタイトルで、
“Tender is the night”
というまさにそのフレーズから曲は始まる。
曲を作るデーモン・アルバーンは、他にもたまに小説から、曲のタイトルとかフレーズとかを引用する。
これもそのうちの1つである。

そういうわけで、「夜はやさし」を読んでみて、曲「Tender」とのつながりを考えてみて思ったこと、
それはズバリ、
夜はやさし」は全然「Tender」ぽくない。ということだった。

「Tender」という曲は、Blurの曲の中でもコード進行や旋律があまり複雑でなく、歌詞も自然界の事物や人間のシンプルな感情を表す言葉が多く、まあとにかくBlurの曲の中ではかなりシンプルな方だと思う。黒人ゴスペルのコーラスのようなものも入っていたり、土着感みたいなものも溢れていたり。個人的には、大きな愛、人類愛のようなものを想起させるような曲だ。(ボーカルのデーモンが当時の彼女と別れたその思いが歌詞になっているとの話もあるが)

一方、小説「夜はやさし」は、シンプルとは程遠い作品だった。いや、話の筋はシンプルなのかもしれない。プロット自体は。ただ、描写が濃すぎるのだ。人物描写、人物同士の関係描写、心理描写、風景描写、すべての描写が。

だから、小説「夜はやさし」は、Blurの曲でたとえるなら、個人的にはそれは、「Battery In Your Leg」のような作品だったと感じた。
「Battery In Your Leg」は、音楽的に言えば、その独創的な旋律、静かな曲調の中で突然響くノイジーで重たいギター音などが特徴的な、密度の濃い曲である。そしてその歌詞面を語れば、これはバンドメンバーの二人の天才、デーモンとグレアムの悲しく美しく、しかし当時は不可避だった「別れ」に対するデーモンの思いがそのまま書かれている、これまた非常に濃い歌詞である。(グレアムがバンドを離脱する頃に作られた曲である)
二人は11歳12歳からの幼馴染で、その後一緒にバンドを組むわけであるが、お互いの才能と性格が全く違うという点で相互にほとんど完璧に近い形で補完しあっていた。まさにデーモンとグレアムの関係は、冒頭に私が「夜はやさし」について書いた
「ものすごく濃密で、ものすごく繊細な、不思議な依存関係」
と同じだった。
その関係が崩壊するさまを、静謐と激しさが同居した音楽で彩った「Battery In Your Leg」が、私の中では「夜はやさし」に最も近い曲だと感じられた。

で、だからどうしたって話だし、一小市民の私がどう感じようとどう思おうと、天才デーモン・アルバーンはきっと「Tender」の曲を作った時に、フィッツジェラルドのこの小説や、さらにその小説よりもっと昔に作られたキーツの詩の「Already with thee! tender is the night,」というフレーズからインスピレーションを得て書いたのだろうということに変わりはないのだけれど。
それに、小説「夜はやさし」と曲「Tender」がそれぞれ独立した作品として素晴らしいものであることに変わりはないのだけれど。
それでも、小説「夜はやさし」と曲「Battery In Your Leg」という大好き且つ全く相互に無関係の2つの作品が、超勝手ながらイメージとして自分の中で関連づけられたこと、それは、私の大切な財産になりました。

サリンジャー「倒錯の森」

五つの短編が含まれているが、何といっても「倒錯の森」が素晴らしい。
(この「倒錯の森」だけは、中編といってもいい長さではある。)

こんな小説が書けたら死んでもいい。
あるいは死ぬときはこんな小説を読んでいたい。
というくらい。

壊れた詩人と、その詩人に壊される女の話。

「荒地ではなく 木の葉がすべて地下にある 大きな倒錯の森なのだ」

サリンジャーの物語はいつも「俗世」と「そうではないどこか純粋な世界」とが出てくる気がする。

あらすじがどうこうよりも、小説から発せられる光でぐいぐい読み進めさせる。
文章の密度が高くなく、少しの「すき間」が文章にあり、そこから発せられる木漏れ日のような光。
思春期のせつない記述から始まり、大人になって少しずつ壊れていく人間達。その崩壊には思春期のせつない記憶が多大に影響している。
俗世間では「精神的に壊れている」と呼ばれる芸術家達。しかしそれを「壊れた」と呼ぶのは果たして正しいのかな?

お風呂で読んでて「まだ読みたい、まだ読みたい」となって、お風呂からなかなか出られない、そんな本だった。
そして読み終えたことがさみしくなる、まだまだ読んでいたい本だった。

「ゴッドファーザー PART II」


若い頃のデニーロの演技を観たくて、久々にゴッドファーザー PART IIを観た。

タクシードライバーと迷ったけど、タクシードライバーのほうがたくさん回数観てるから、
今回は3回目くらいになるゴッドファーザー PART IIにしてみたら、これがよかった。
なかなか現実世界に帰ってくるのが難しいくらいに。

デニーロの演技目的だったけれど
デニーロの演技以上に、映画そのものに圧倒された…!
複雑なストーリー、
ニーノ・ロータの音楽、
そして絵画のような映像!
そしてデニーロ以上に、若かりしアルパチーノの美しさ、かっこよさ、存在感、そしてこの映画との見事なハマりっぷり!
なんというか、映画の醍醐味をどっぷりと感じられる映画でした。

1974年公開。
(以降、ネタバレあり)
★★★★★(5点中5点)

監督:フランシス・フォード・コッポラ
出演:アル・パチーノロバート・デ・ニーロダイアン・キートンジョン・カザール

■ストーリー概要
ゴッドファーザー』第一作でコルレオーネ・ファミリーを継承したマイケル・コルレオーネ(二代目ドン)のその後を語ると同時に、
若かりし頃のヴィトー・コルレオーネ(初代ドン)が力を手にして浮上していく様、
その両方のシーンを交錯させながら、映画が進んでいく。

マイケル・コルレオーネの物語においては、裏切りや葛藤が渦巻いて、人間マイケルの苦悩も描かれる。
ヴィトー・コルレオーネの物語においては、ヴィトーがドン・コルレオーネとして権力者になるその必然ともいえる
ヴィトーの人格と能力が魅力的に描かれる。


■感想
・新三大 ゴッドファーザー PARTIIの「ザ・映画」なシーン
 要は映画の醍醐味を感じられるかっこいいシーン。
 ストーリーを知っていても、何度でも観返したくなるようなシーン。

 1.キューバでの豪奢なパーティーの最中。裏切者の兄フレドに、マイケルがものすごい形相でキスして、
I know it was you, Fredo. You broke my heart. You broke my heart!
   というシーン。
 2.祭りの最中。若かりしヴィトーが、家々の屋根の上を軽々と跳ねるように歩きながら、
   眼下に道歩く街の権力者ドン・ファヌッチを追いかけて、
   最終的には殺す、というシーン。
 3.すべてマイケルの策略どおりに、さまざまな関係者の殺人、暗殺、自殺の3つがそれぞれ時を同じくして行われるシーン。
   この持って行き方は、音楽の不穏さや湖での殺人の絵の美しさなど、
   映画ならではの表現の仕方が、もう完璧でした。
   加えて、人を殺すことについてはマイケルの策略どおりに事が運んでいることと対比して
   マイケルの周囲の人間関係はまったくうまくいかなくなっている。
   このコントラストと皮肉がぐさりと突き刺さる風に作ってあり、
   本当におもしろかった。


・お兄ちゃんのフレド役のジョン・カザールの演技もすばらしかった。
 彼の演技なしではこの映画は成り立たなかっただろうと思うけれど、アカデミー賞助演男優賞にもノミネートされていないことにびっくりした。

・初代ドン・コルレオーネ(=ヴィト・コルレオーネ)の昔の話と
 今のドン・コルレオーネ(=マイケル・コルレオーネ)の話とが折り重なって映画が進んでいく。
 そのことについて、初代の昔の話は要らなかったなんて意見もネットで見かけたけれど、
 初代の話あってこそのマイケルの苦悩だから、
 この構成こそがこの映画に深みを与えていると思いました。

「きっと意味なんてないさ、蹴飛ばすもの何にもありゃしないからね」

やらなきゃいけないことはたくさんある。
だけど自分にとって本当に大切なことや大切な人と関係ない物事たちは、本当は全然意味がない。
そしてほとんどの物事たちは、そんな風に見える。

そういう風に感傷的な理由をつけて、意味がないと言って、それらの物事をやらないことは簡単だ。
一方、何も感じることなく盲目的に、それらの物事をただやる、ただ進める、ただ処理することも簡単だ。

今の自分にできうる最善の解は、意味なく見えるそれらの物事を、大切なことと関連付け、大切なことを見失わないようにしながら、大切なことへのセンチメンタリズムをもちつつも、やる。
ということなのだろう。
気持ちを強く持って。